平成25年春季彼岸施餓鬼法要配布用

「十三仏 追善供養を司る如来・菩薩たち」

岩瀧山 往生院六萬寺 副住職 川口 英俊



 この度は、隔月発行の寺報「往生院だより」のコラム・シリーズのアーカイブをまとめさせて頂きました。初七日から三十三回忌までの追善供養におきましては、仏法を教導する師となる仏様たちがいらっしゃいます。どうぞ、この機会に少しでも各仏様のことをお知り頂けましたら幸いでございます。



十三仏・初七日導師「不動明王」様


 これから、シリーズにて十三仏につきまして私なりにまとめさせて頂こうと考えております。今回は、まず初七日の導師である不動明王様について扱わせて頂こうと存じております。

 不動明王様は、真言宗の開祖・弘法大師空海が最初に大陸より日本へと伝えたとされる密教特有の尊格である明王の一つであります。

 密教の根本尊である大日如来の化身、あるいは、その内証・内心の決意を表現したものと見なされています。

 密教では、一つの「ほとけ」が、自性輪身・正法輪身・教令輪身という三つの姿で現されているとし、自性輪身・如来は、宇宙の真理・悟りの境地そのものを示し、正法輪身・菩薩は、仏説を説法するお姿を示し、教令輪身・明王は、仏法に従わない者を教化して、仏敵を退散させる実践的な働きを示し、不動明王様は大日如来の教令輪身とされています。

 不動明王様は当山では、奥の院の更に山を分け入った奥の岩瀧に一体、境内御仏方における無縁塔のお隣の一体と、十二支・酉年の御守本尊の一体とあり、計三体奉られております。

 不動明王様は、よく子どもさんが「こわい」と言うように、憤怒(ふんど)・鬼の恐ろしい形相をしています。これは、煩悩を抱え、救いがたい私たち人間衆生を力づくでも救おうとしているためであります。

 「不動」とされるゆえんは、釈尊が悟りを開くために最後の瞑想修行に入られた時、菩提樹の下に座して、「悟りを開くまでは、この場を動かず」と決心されて、数々の世界中の魔王(煩悩)が釈尊を挫折させ、その場を動かさせようと押し寄せてきたものの、釈尊はついに負けず動かずに悟りを開かれたところにも現れているとされます。常に穏やかで慈しみに溢れた表情をされている釈尊も、この時における魔王たち(煩悩)と戦った時には、心の中は凄まじい憤怒・鬼の形相であったことが、まさに不動明王様のお姿にも現されているとも言えます。

 不動明王様のお姿は、怒りによって逆巻く髪はまとめ上げられて弁髪(べんぱつ)となっており、法具は極力付けない軽装で、法衣は片袖を破って結び、右手に降魔(ごうま)の三鈷(さんこ)剣(魔・煩悩を断ち切って退散させる剣)、左手に羂索(けんさく)(悪を縛り上げ、煩悩から抜け出せない衆生を救い上げるための投げ縄)を握りしめ、更に火炎・迦楼羅焔(かるらえん)(劫・見・煩悩・衆生・命の五濁のうち煩悩から生じる人間の三毒である貪・瞋・癡を食らい尽くす伝説の火の鳥の炎)を背負い、憤怒の形相で粗岩の上、「一切の衆生を救うまではここを動かじ」と決意されている像容であります。

 当山の境内無縁塔の隣におけるお不動さんの前には、八大童子のうち「こんがら童子」・「せいたか童子」の二体も奉られています。

 お不動さんをお参りされる際には、五濁のうち特に煩悩から生じる三毒である貪(むさぼり)・瞋(いかり)・癡(おろかさ)を反省することが誠に重要であります。また、亡くなられました方は初七日に、不動明王様から煩悩を滅するための重要な教説を受けることとなります。そのため、しっかりと御供養申し上げることが大切となるでしょう。

 ご真言(慈救咒)「ノウマク・サンマンダ・バサ(ザ)ラダ(ン)・センダ(ン)・マカロシャダ(ヤ)・ソ(サ)ハタヤ・ウンタラタ・カンマン」合掌



十三仏・二七日導師「釈迦如来」様


 十三仏シリーズの二回目は、皆様ご存じの仏教の開祖・お釈迦様でございます。お釈迦様は、紀元前五世紀頃、現在のネパール国境付近にあったカピラヴァストゥ地方・釈迦族にお生まれになられ、本名はガウタマ・シッダールタ王子でございました。

 王子として富貴栄華に恵まれながらも、人間の根源的な苦しみである生老病死を超えていく方法を見つけるべくにご出家なされ、苦難の修行を経られた後、ついにお悟りを開かれて、目覚めたる者「ブッダ」となられ、入滅されるまで、そのお悟りの内実について、様々に方便を用いて伝道活動を精力的に続けられました。仏教の基本的な教えとなるのが、「諸行無常・諸法無我・一切皆苦・涅槃寂静の四法印」、「苦諦・集諦・滅諦・道諦の四諦」などとなります。

 お亡くなりになられて引導(いんどう)を受け、戒名を授けられて仏弟子となられた方は、二七日の日にお釈迦様より仏教の基本的な教えを賜ることとなります。仏教の基本的な教えにつきましては、これまで施本シリーズで私なりにある程度解説させて頂いておりますので、ここでは詳しくは扱いませんが、施本シリーズはホームページ・ブログ( http://t.co/RZJudE4f )でも内容を全て公開しておりますので、この機会に学びの参考の一助となりましたら幸いでございます。

 ご真言「ナウマク・サウマンダ・ボダナン・バク」合掌



十三仏・三七日忌導師 「文殊菩薩」様

 三七日忌の導師は、文殊菩薩様でございます。文殊菩薩様は、空思想を説く般若教典や維摩(ゆいま)経に登場し、般若の智慧に優れた菩薩様として有名であります。

 お釈迦様入滅後、第一回仏典結集(けつじゅう)に参加した実在の人物であると目されていますが、大乗教典においては、徐々に神格化されて扱われる側面が強くなっていきます。

 大乗仏教において、空思想の理解は、基本中の基本であるものの、やはり難解至極で、その空思想を確かに説かれるため、智慧に優れている菩薩様として尊敬されているわけであります。このことが高じて、「三人寄れば文殊の知恵」という諺もあります。

 文殊菩薩様が登場なされるお経の中で、もっとも有名なものは、やはり「維摩経(不可思議解脱経)」であります。維摩居士との「不二法門」におけるやりとりは、空思想を考える上で、実に重要な内容となっています。私の拙著の施本「仏教・縁起の理解から学ぶ」の第五章「般若思想について」において、少しだけ 「維摩経」について触れさせて頂いております。

 文殊菩薩様のお姿は、獅子の背の蓮の華の上に座禅されており、右手に智慧を象徴する宝剣、左手に経典を持たれています。

 お亡くなりになられ、お葬式後、仏道を歩まれておられる方は、三七日忌において、文殊菩薩様より般若の智慧について重要な教説を受けられることとなります。特に、常日頃、私たちが空(実体の無い)なる世界において、様々なモノ・コトを実体視して執着してしまう誤った見方を正させるように働きかけて下さいます。

 私たちも迷い苦しみ、煩悩の第一原因である我執を滅ぼすことに精進していかなければなりません。

 ご真言「オン・アラハシャ・ノウ」合掌



十三仏・四七日忌導師「普賢菩薩」様

 四七日忌の導師は、普賢菩薩様でございます。普賢菩薩様は、十方世界に普くに現れ、方便を用いて仏法を説き、人々を救うとされる菩薩様であります。

 白象の背の蓮華座上に結跏趺坐(けっかふざ)して合掌されているのが一般的なお姿となっています。

 白象は、徹底した仏道行、衆生済度の利他行を表しています。また、白象には、牙が六本あり、基本的な大乗仏教の仏道行である「六波羅蜜(ろくはらみつ)」(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を表しているとされます。

 智慧の文殊菩薩様と共に、慈悲行の普賢菩薩様として、お釈迦様の脇侍(向かって左側)菩薩として鎮座されて奉られることもあります。

 また、密教の世界では、菩提心(悟りを求める強い心)を堅固に持った者として、金剛薩た(こんごうさった)と同一視されることもあり、大日如来の教えを受けた菩薩として、金剛手菩薩(こんごうしゅぼさつ)と呼ばれることもあります。

 法華経においては、智慧と慈悲を兼ね備えて実践行に精進する菩薩様として描かれていることから、法華経を重んじる仏教徒たちからは、篤く信仰対象とされています。

 四七日忌において、仏道を歩まれている故人は、普賢菩薩様の方便による仏説を聴くことで、菩提心を強めて、より一層に六波羅蜜、慈悲利他行への精進を進めていくことを目指して参ります。

 ご真言「オン・サンマヤ・サトバン」合掌



十三仏・五七日忌導師「地蔵菩薩」様

 十三仏シリーズ、今回は、五七日忌の導師、皆さまにも非常に馴染み深い「地蔵菩薩」様でございます。大自然の大地が様々な恵みをもたらすように、大いなる慈悲の心を蔵する地蔵菩薩様は、その慈悲の御心により、迷いの世界で苦しむ衆生たちに恵みをもたらし、お救いくださる菩薩でございます。

 お釈迦様が入滅されてから、五十六億七千万年後に弥勒菩薩様がご出現されるまでの間、六道(地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人道・天道)において迷い苦しむ衆生を救うために現世にお出でなされたという菩薩でもあります。一説(地蔵十王経)には、閻魔大王(五七日忌の裁判官)の化身ともされています。

 六道のそれぞれにおいて、地蔵菩薩様がおられ、「六地蔵」として有名であります。地獄道は、檀陀(だんだ)地蔵様、餓鬼道は、宝珠地蔵様、畜生道は、宝印地蔵様、修羅道は、持地地蔵様、人道は、除蓋障(じょがいしょう)地蔵様、天道は、日光地蔵様として、当山においてもお奉りさせて頂いております。六地蔵様の各名称は一定しておらず、「大日経疏」では、地獄道から順番に、大定智悲地蔵様、大徳清淨地蔵様、大光明地蔵様、清淨無垢地蔵様、大清淨地蔵様、大堅固地蔵様と呼称されてもいます。

 日本においては、子ども・水子さんを護る菩薩様としても有名であり、当山においても毎月二十四日には、境内・地蔵尊前にて月例の御水子供養、そして、毎年八月二十四日には、地蔵盆として、提灯を飾り付け、子どもたちが喜ぶ御菓子類をお供えし、ご法要を行います。その際に読経する「賽の河原地蔵和讃」の内容においては、幼く亡くなった嬰児(水子さん)たちは、娑婆と冥途との境である賽の河原を渡ってあの世の世界へと容易には至ることができず、右も左も分からない賽の河原において留まり、寒く、石ころばかりの中をさまよい歩き、親恋しさと足の痛さ、ひもじく、つらく寂しい思いでしくしくと泣きながらも、娑婆に残った父、母、兄弟たちを想って、石積み組んで回向供養したりして一人で遊ぶものの、やがて日暮れともなると地獄の鬼が現れて、せっかく積んだ石積みを壊されたりして、追い立てられ、いじめられてしまっている、そんな中、地蔵菩薩様が現れられて、「私を父母と思って頼りにしなさい」と水子さんたちを慈悲の御心で温かく包み込み、冥途の旅へと連れだっていくのであります。まさに衆生済度(あらゆるものたちを迷い苦しみから救い出す)の誓願を持たれている菩薩様のお役目を示す意義深い内容であります。

 ご真言「オン・カカカビ・サンマエイ・ソワカ」合掌



十三仏・六七日忌導師「弥勒菩薩」様

 六七日忌の導師は、弥勒(みろく)菩薩様でございます。弥勒菩薩様は、サンスクリット語では「マイトレーヤ」と呼称され、慈悲の現れの菩薩として、「慈氏」・「慈尊」菩薩とも言われて、お釈迦様在世時には、実際に実在した人物であると目されています。

 お釈迦様入滅後、五十六億七千万年後に現世にお出ましになられて衆生を救済する如来として、お釈迦様から指名された菩薩でもあり、現在は、兜率天(とそつてん)で菩薩行にご精進なされているとされています。

 弥勒信仰として、特に末法と呼ばれるような時代になると、救世主待望論が高まる中、弥勒菩薩様への信仰が篤くなることがあります。

 また、七福神として有名な「布袋」さんは、弥勒菩薩の化身と言われることもあります。

 弥勒菩薩様の仏像は、瞑想にふける半跏(はんか)思惟の美しいお姿で表されるのが代表的で、優しく微笑まれているのが印象的です。

 現在は、兜率天にて、どのようにして迷い苦しむ衆生たちを涅槃へと導いていくべきかを慈悲の御心にて思惟されているのでありますでしょう。

 誠に如来として現世にお出ましになられるのが、待ち遠しい限りでございます。

 ご真言「オン・マイタレイヤ・ソワカ」合掌



十三仏・四十九日忌導師「薬師如来」様

 十三仏シリーズ、今回は、四十九日忌の導師、「薬師如来」様でございます。

 薬師如来様のご容像は、右手は施無畏(せむい)印(衆生の様々な畏れを無くし、安心を与える施しを行う慈悲の印)、左手は与願(よがん)印(衆生の願いを聞き入れ、望むものを与えようとする慈悲の印)で薬壷(やっこ)を持つのが一般的な特徴でございます。

 薬師如来様は、西方極楽浄土の教主・阿弥陀如来様に対して東方浄瑠璃(とうほうじょうるり)世界の教主で、正式には、薬師瑠璃光如来様、異名で大医王仏様と呼称されます。東方浄瑠璃世界の仏国土において、日光・月光菩薩・十二神将などの方々と共に衆生を見守っておられます。

 薬師如来様は、菩薩の時代における十二の大願を成就なされて、お悟りを開かれて如来様と成られました。その大願の一つに「除病安楽」(衆生の病気を治し、安楽を与える)の項目があり、病気を治癒して頂ける仏様であるとして、現世利益的な信仰が厚くあります。しかし、実際のところ、「衆生の病気」とは、 迷い苦しみの輪廻の中にある私たちそれぞれの煩悩・業(カルマ)のことであり、真理を知らずに悪業を積み重ねてしまう「無明(むみょう)」のことでもあります。

 ですから、「除病安楽」とは、御仏の智慧・慈悲による様々な方便を用いて、それぞれの煩悩・業(カルマ)・無明に応じ、それを退治するための処方箋 (薬)を薬師如来様がお与えになられるということと理解するのが良いでしょう。また、もう一つは、悟りを目指して頑張って修行している者の病気などによる修行の進みの妨げ、障りを除くということもあるかと存じます。

 四十九日忌においては、お亡くなりになられました方が、煩悩・業(カルマ)・無明を除滅させて、無事に修行が進むようにと御供養申し上げることが大切なこととなります。

 ご真言「オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカ」合掌



十三仏・百日忌導師「観音菩薩」様

 サンスクリットでは、「アヴァローキテーシュヴァラ」、「遍く観る自在者」として、漢訳では、観自在菩薩、あるいは観世音菩薩と呼称されて、登場される代表的なお経としては、般若心経や観音経(法華経・普門品)があります。

 般若心経では、釈尊の十大弟子の一人「舎利弗」(シャーリプトラ)に深遠なる「空」の教えをお説きになられておられます。

 大慈大悲のご誓願の下、智慧を備えて真理を観られる中、迷い苦しみにある衆生の救済のため、変化自在に顕れられる菩薩様でもあり、その変化身は、六から三十三と多く、代表的な六観音として、六道輪廻と対照されて、「地獄道・聖観音」、「餓鬼道・千手観音」、「畜生道・馬頭観音」、「修羅道・十一面観音」、「人道・准胝観音(または、不空羂索観音)」、「天道・如意輪観音」がございます。

 現世利益的な存在としての信仰が篤いですが、衆生それぞれの迷い・苦しみに応じ、方便によってその者の機根(仏法の理解力)に合わせて真理をお説きになられる菩薩様であると考えるのが良いでしょう。

 また、チベット仏教における代々の転生ラマであるダライ・ラマ法王猊下は、観音菩薩の化身とされており、篤く信仰されています。

 百日忌は、異名として「卒哭忌(そっこくき)」とも言いますが、その意は、「激しく嘆き悲しむ(哭)ことを終える(卒)ための御供養」ということでもあります。

 あまりに残された遺族が故人への嘆き悲しみの想い、苦しみにとらわれてしまっていると、故人の仏道精進の妨げとなってしまうため、百日忌の供養を機として、卒哭しましょうということでもありますでしょう。

 ご真言「オン・アロリキヤ・ソワカ」合掌



十三仏・一周忌導師「勢至菩薩」様

 勢至(せいし)菩薩様は、サンスクリット語で「マハースターマプラープタ」、「偉大な智慧の勢いのある力を獲得した者」として、阿弥陀如来様の右側の脇侍として控えられて、阿弥陀三尊の一尊を担われています。左側の脇侍は、百日忌導師である観音菩薩様で、慈悲の観音菩薩に対して、智慧の勢至菩薩として敬われています。

 観音菩薩様の頭頂の宝冠には、化仏が頂かれているのに対して、勢至菩薩様の宝冠には、水瓶が頂かれており、水瓶の中には、甘露の法水(智慧の恵みの喩え)が溜められていると言われています。そして、お身体には装身具をまとわれ、軽く合掌なされておられます。

 勢至菩薩様は、その偉大なる智慧の勢力にて、迷い苦しみにある一切の衆生に菩提心(悟りを求める心)を起こさせて、修行・善行・慈悲行に励まさせて、何としても悪趣の世界(地獄・餓鬼界)に輪廻することのないように救済して下さる菩薩様であります。「大勢至」とも呼称され、「大」いなる智慧の「勢」力にて、衆生を利益(りやく)させるに「至」らせるという意であると言えます。

 迷い苦しみにある私たち衆生は、智慧(真理を正しく認識・判断・行動する力)が無く、無明(根本的無知)の中にあって、輪廻(迷い苦しみ続ける世界を廻り続ける)をさまようこととなります。勢至菩薩様は、その偉大なる智慧のお力にて、衆生に智慧を備えさせて、無明を打ち破らせ、輪廻からの解脱を図らさせるのであります。

 智慧に関しては、特に「空」と「縁起」の理法も正しく理解していることが必要となります。空と縁起に関することにつきましては、拙生の小論、平成二十三年度・お盆施餓鬼法要配布資料『東日本大震災に思う』と平成二十三年度・秋季彼岸施餓鬼・配布資料『空と縁起と』?仏教の存在論?をご参照頂けましたらと考えております。ネット・ブログにても公開しておりますので、それぞれ、「東日本大震災に思う 川口英俊」、「空と縁起と 川口英俊」でご検索して頂けましたら、小論の内容をご覧頂けるかと存じます。

 ご真言「オン・サンザンザン・サク・ソワカ」合掌



十三仏・三回忌導師 「阿弥陀如来」様

 三回忌の導師は、阿弥陀如来様であります。サンスクリットでは、「アミターバ・無量光」、あるいは、「アミターユス・無量寿」と呼称されて、遍くに悟りの光を幾果てもなく、また、永遠に尽きることなく照らし続ける者と訳すことができます。

 阿弥陀如来様は、かつて法蔵菩薩様であった時代に、五劫(ごこう)という気の遠くなるような長い期間にわたり、世自在王仏様のもとで四十八の誓願を立てて修行を積み、ついに悟りを得て如来となられ、その後、西方極楽浄土において仏法をお説きになられているとされます。

 容像は、装身具を身に着けない質素なお姿で、定印・説法印・施無畏印・与願印などの印相を結ばれています。

 阿弥陀三尊として奉られる場合には、脇侍に百日忌導師の観音菩薩様と一周忌導師の勢至菩薩様が配されます。

 また、密教においては、五智如来として、大日如来(中心)・阿しゅく如来(東方)・宝生如来(南方)・阿弥陀如来(西方)・不空成就如来(北方)の一角を担われて、それぞれ五智(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を司り、阿弥陀如来様における妙観察智では、悟りの真理のありようを深く観じ察する智慧を扱われることで、無明(根本的無知)の中を輪廻し迷い苦しんでいる一切衆生を、その智慧からの大慈大悲により救わんとなされるわけであります。

 「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えて、阿弥陀如来様に一心に帰依して極楽往生を願う信仰は、阿弥陀如来様のご誓願(第十八番目)によるご功徳を頼りにして、救いを求めんと欲するところから盛んになったものと考えられます。

 亡き方は、三回忌でこれまでの十王たちによる裁判もいよいよ一つの節目となり、五道転輪王からの結審を受けられます。三回忌以後は、これまでの様々なお経の字義通りの教えの学び・修行から、次に、お経に隠された教えである密教の教えの学び・修行の世界を進まれていくこととなります。私たちも無事に亡き方が三回忌を通過できるようにと追善供養をお勤めすることが大切となります。

 また、当山のご本尊様も阿弥陀如来様で、かつては壮麗な七堂伽藍を構え、極楽浄土への往生を目指して、日想(じっそう)観・念仏行を修する修行僧が絶えなかったと記録されています。

 ご真言「オン・アミリタ・テイセイ・カラ・ウン」合掌



十三仏・七回忌導師「阿しゅく如来」様

 十三仏シリーズ、今回は、七回忌の導師、「阿しゅく如来」様でございます。
 阿しゅく如来様は、サンスクリット語で「アクショービヤ」と呼称され、揺るぎない者、不動なる者という意で、悪業や煩悩に決して負けない、動じないということと解せます。不動明王様の由来とも同意ではないかと思われます。

 阿しゅく如来様のご印相は、右手をそのまま下げて、指先で地に触れる触地印(そくちいん)、左手は金剛拳にて着衣の端を握った形をとられています。

 密教における五智如来として、大日如来(中心)・阿しゅく如来(東方)・宝生如来(南方)・阿弥陀如来(西方)・不空成就如来(北方)の一角を担われて、それぞれ五智(法界体性智、大円鏡智、平等性智、妙観察智、成所作智)を司る中、阿しゅく如来様における大円鏡智では、悟りの真理のありようをまるであたかも鏡に映したかの如く、そのまま、ありのままに悟り、悪業や煩悩によって曇ることの一切ない境地としての智慧を示されることで、一切衆生を輪廻から救わんとなされるわけであります。後期密教(無上瑜伽タントラ)では主尊として扱われてもいます。

 阿しゅく如来様は、東方世界にある阿比羅提(・アビラッティー)という国において、遙か昔に大日如来様がその国を教化しに参られた時に発願(ほつがん)、修行をなされて、やがて悟りを開かれて如来となり、それから建立された仏国浄土において仏説をお説きになられているとされています。主に発願・修行なされた内容とは、無瞋恚(どのようなことにおいても一切怒らない)であると言われています。また、一説では、同じく東方を司る東方浄瑠璃世界の教主で、四十九日忌の導師である薬師如来様と同格尊にて扱われる場合もあるようです。

 仏弟子となられて仏道の修行に励まれておられる亡き方は、先の三回忌において導師・阿弥陀如来様からのご教説と、裁判官・五道転輪王の結審を受けられて、修行も一つの区切りを迎えられて、次の段階に入られることとなります。初七日から三回忌までの仏説は、お経に顕れている字義通りの教えとしてある「顕教」を学び、三回忌以降は、お経に隠された秘密なる教えとしてある「密教」を学ばれて悟りの世界を一気に目指されていくこととなります。

 亡き方が無事に仏道を成就なされるようにと私たちも追善供養・功徳回向に努めていくことが大切なこととなります。

 ご真言「オン・アキシュビヤ・ウン」合掌



十三仏・十三回忌導師 「大日如来」様

 十三回忌の導師は、大日如来様でございます。密教の代表的尊格の如来様であります。サンスクリットでは、マハー・ヴァイローチャナ、音訳で摩訶毘盧遮那(マカビルシャナ)仏となり、漢訳では大日如来の他に「遍照如来仏」と呼称されます。「大日・遍照」と訳されているように、日輪の如くに遍く悟りの大光明を照らし出して下さる仏様と解することができます。

 容像は、他の多くの如来たちのように質素ではなくて、菩薩と同様に豪華な装飾をお召しになられています。諸尊の代表として如来の中でも別格の扱いとなっていると言えます。

 大日如来様は、大宇宙の真理そのものであり、諸尊の根本仏として、主に曼荼羅においてその教えが顕されています。曼荼羅には胎蔵(たいぞう)界(大日経)と金剛界(金剛頂経)があり、胎蔵界は、正式には大悲胎蔵生曼荼羅と言われるように、まるで母胎(大日如来様)で赤ちゃん(私たちの仏性)がすくすく育っていくように菩提心・慈悲心を育んでいくための教えが顕され、金剛界では、堅固なる悟りの智慧を得ていくための教えが顕されていると一般的に解されていますが、深遠なる密教奥義の真なる理解のためには、十分なる正しい仏道修行の前提が必要不可欠であり、この浅学非才の未熟者があまり言及できるところではありませんので、あしからずご了承下さいませ。

 また、初七日導師・不動明王様は、大日如来様の化身(衆生教化のための姿)、あるいは内証(内心の決意)であると言われています。

 仏縁を結ばれて、仏道の修行に励まれておられる亡き方は、いよいよ本格的に密教の灌頂(かんじょう)を受けながら悟りの世界を更に進んでいくこととなります。

 ご真言「オン・アビラ・ウンケン(胎蔵界大日如来)・バザラ・ダトバン(金剛界大日如来)」合掌



十三仏・三十三回忌導師「虚空蔵菩薩」様

 いよいよ十三仏シリーズは最終回・三十三回忌の導師、虚空蔵(こくうぞう)菩薩様でございます。サンスクリットでは、「アーカーシャ・ガルバ」、「虚空の母胎」として、漢訳で「虚空蔵」と呼称されます。

 「虚空」とは、大宇宙の無限の広がりのことを意味し、「蔵」とは、その無限の広がりにおいて、遍くに福徳を与える智慧と慈悲を備え収めていると解されています。

 容像は、五仏宝冠を頭頂に、各手に、如意宝珠や宝剣を持つ場合と与願印の印相を表す場合など様々にあります。

 五仏宝冠とは、金剛界の大日如来様が頭にかぶる宝冠と同様で、金剛界五仏(大日如来様・阿しゅく如来様・宝生如来様・無量寿如来様・不空成就如来様)が配置されている冠のことです。

 密教尊格の菩薩であり、胎蔵曼荼羅においては、虚空蔵院の主尊、釈迦院における一尊として、また、金剛界曼荼羅においては、賢劫十六尊の一尊として配されています。

 一拙私見として、「虚空蔵」とは、あらゆる全てには実体がない(無自性・無自相・無実体)、一切全ては空であると明瞭に悟って、煩悩・根本的無知(無明)を排撃させるための大いなる智慧と慈悲を蔵している菩薩様であるとして理解させて頂いております。(無実体、一切空といえども、何もないという「無」 ではなくて、存在は「縁起」として確かに成立していると考えるのが仏教の基本であります。非有非無の中道。)

 仏縁を結ばれて、仏道の修行に励まれておられる亡き方は、三回忌以降、密教の灌頂(かんじょう)を受けながら、いよいよこの三十三回忌において修行も一つの満行を迎え、また、以後も更に悟りの境地を高めて修行に邁進していかれることとなります。亡き方が無事に仏道の歩みを進めていくことができますようにと、初七日から三十三回忌まで、何とか追善供養・功徳回向を勤めていきたいものであります。

ご真言「ノウボウ・アキャシャ・ギャラバヤ・オン・アリキャ・マリボリ・ソワカ」、あるいは、「オン・バザラ・アラタンノウ・オンタラク・ソワカ」合掌


 以上、十三仏を拙いながらにも簡単に解説させて頂きました。もちろん気を付けなければならないのは、尊い明王様・菩薩様・如来様とはいえども「空」なる存在であって、実体としてある存在ではなくて、あくまでも仏の教えの顕れとしての役割がそれぞれに与えられていて、目的である悟り・解脱・涅槃へ向けての助けとしての体現的なる存在であるという点には十分に注意が必要となります。

 また、追善供養・功徳回向に関しましては、拙論「追善供養・功徳回向の考え方について」(http://blog.livedoor.jp/hidetoshi1/archives/52108201.html )もご参照頂けましたらと存じます。

 補足として、各回忌の審理を司る裁判官としては、初七日から順番に、秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王、更には蓮華王(七回忌)・祇園王(十三回忌)・法界王(三十三回忌)と配されています。また、十三回忌の次に、十七回忌(大日如来)・二十三回忌(大日如来)・二十五回忌(愛染明王)・二十七回忌(大日如来)、三十三回忌の後に、三十七回忌(大日如来)・四十三回忌(大日如来)・四十七回忌(大日如来)・五十回忌(大日如来あるいは愛染明王)と丁寧に勤める場合もあります。



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