往生院だよりコラム 7月号より
喜捨論

  喜捨(きしゃ)とは、文字通り「捨てる喜び」の供養のことです。修行僧が托鉢行をしている時、
 街角で一般の方々から浄財やお米・野菜を頂くことを「喜捨を受ける」と言います。釈尊伝来の
 托鉢は、乞食(こつじき)行であり、修行に入るまでは、俗世の中で贅沢に安穏と暮らしていた身
 ・・卑下の心も傲慢な心も捨て去ることが僧侶には求められる苦行であります。私も修行時代は、
 この托鉢行で様々なことを考え、学びました。
  喜捨・布施を受けた時、受け手は合掌し、深く礼をしますが、それ以上に名前や所在を尋ねた
 りしませんし、授けた人たちも別に返礼や見返りを求めることなく、その場で一切のことは無にな
 ります。喜捨した人たちも無心、喜捨を受けた側も無心となり、両者欲望を捨てる実践が、喜捨
 供養の本質であります。
  現代社会では、物質文明が発達し、コンピューター・テクノロジーだと便利なモノ・豊かなモノが
 溢れています。昔よりも人間は楽な人生を送れるようになったにも拘わらず、人の心は随分と貧
 しくなり、生きていくことが窮屈な世の中となってしまっています。激しい経済淘汰社会の中で、奪
 い奪われ、騙し騙されとなり、報酬・見返りを求め合っては争い、富の奪い合いに必死となる中で、
 生きるための真の豊かさというものを見失いがちになってしまっています。
  俗世のテレビでは、やれブランド品だの、セレブの生活、豪邸・高級車・高級料理などの紹介と
 人間の欲望を煽るような番組が氾濫しています。視聴者たちも出てくる金持ち、贅沢を楽しんでい
 る者たちに憧れや願望を膨らませてはいないでしょうか・・身の丈を忘れ、無理をしてローンを組ん
 だり、見栄を張ろうとしているところはないでしょうか・・
  例え、身は貧しくとも、足るべきところを知った人間の心は誠に豊かであります。
  喜捨は、如実にこの「足るべきところを知る」供養の実践となります。贅沢三昧の生活から離れ、
 己の傲慢さを諌める・・托鉢行を行わないとできないのかというと、托鉢をせずとも世間でできる実
 践供養の方法があります。それが「ボランティア・奉仕活動」です。
  ボランティア・奉仕活動では、お互いの利害に関係なく、見返り・報酬を求めることもなく、なおか
 つ自分のお金・モノ・時間・労力・遊びたい、楽したいという欲まで捨てることができ、更に困ってい
 る方を助けることができる上、誠に喜んで頂けます。もちろん、活動を終えた時、何事もなかったか
 のように両者の一切は無心に戻ります。
  まるで俗世の欲望渦巻く息苦しい中で、一陣の清々しい涼風が吹き抜けるような、そんな喜捨供
 養が少しでもできれば、良い世の中になるのではないかと思います。私も市民・福祉ボランティア活
 動の実践で、更に考察していきたいと考えております。

 川口 英俊 拝



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