*桜井の宿・・東大阪市六万寺周辺の桜井郷という説と
   摂津の桜井
という説があります。
楠木正行正成の長男として、
  正中元年(1324)に河内に生
  まれます。幼少の時を河内往生
  院などで学問を学び、武芸を
  磨きました。その頃、南北朝の
  抗争が激しく、千早赤坂城などで
  活躍していた父、正成は九州よ
  り足利尊氏が勢力を盛り返し、都
  へ攻め上がるとの報を聞き、子・
  正行と最後の別れをします。時は
  1336年。
新田義貞とともに湊川
  の戦い
において、正成は足利尊氏
  と戦い、壮絶な戦死を遂げました。
  その後、正行は楠木一族の頭領と
  して南河内を中心に活躍します。
  湊川の戦いで勝利した足利方は、
  着々と幕府の基礎を固めつつあり
  ましたが、南朝方の動きを常に気にし、
  楠木一族の河内での活躍に、いつ
  決戦を挑むか機会を窺っていました。



  
そして、正平2年(1347)12月26日、
  いよいよ南朝討伐の兵を尊氏は挙げ
  ます。
足利方は高師直師泰を中心と
  した
兵6万の大軍をもって京都を出発し、
  淀・八幡
に着く。
  この報を聞いて、正行は27日、吉野の
  皇居に馳せ参じ
後村上天皇に拝謁した
  
くしくも、父・正成が、湊川の戦いへ赴く
  前に
後醍醐天皇に拝謁し、決死の覚悟
  で戦いに望んだのと一緒であった。
  親子二代・南朝方天皇陛下に忠義忠誠
  を尽くし南朝方のために散る覚悟だった
  に違いない。後村上帝は、「父と同じ道は
  歩んではならぬ、無理はせずに生きて
  帰るように」と正行に告げたが、もはや
  心の中では帝のために玉砕を覚悟して
  いた。

この時、帝はめったに上げることのない御簾を上げて正行に
声をかけられた。


戸板に書かれた和歌は如意輪寺に納め
られている。

  吉野・如意輪寺にて生きてはもはや
  帰らぬと、かねてより覚悟の兵の名
  を過去帖に書きとどめました。

  「かえらじと かねて思えば 梓弓 
  なき数にいる 名をぞとどむる」


  
と辞世の歌を残して、河内へと出陣
  しました。
  正平3年(1348)1月2日、幼少期を
  過ごした河内往生院に本陣を置き、
  5日早朝、凍てつく中を正行は
3千
  兵を率いて、東高野街道から押し寄
  せる数万の
高師直・師泰軍を目指し
  て激しく戦いを挑みました。劣勢は
  明らかながら、忠義忠誠に燃えた兵
  たちはひるむことなく猛然と戦いました。
  その日、四條縄手の戦いで、30余度の戦い
  に、ついに刀折れ、矢尽き、もはやこれまでと
  敵の手にはかかるまいと弟・正時と刺し違えて
  亡くなりました。まだ僅か25歳の青年でした。

  四條縄手の合戦により、
  往生院の伽藍も兵火に
  焼け落ちました。

  正行公の亡がらは黙庵
  和尚により往生院の境内
  にひっそりと埋葬(胴塚)さ
  れたと伝えられています。


* 四條縄手・・東大阪・東部の四条・縄手
          地区周辺との説と今の四条
          畷市周辺との説が分かれて
          いる。


             お墓は全国に六ヶ所ほど伝わっており、往生院境内(胴塚)・額田首塚(東大阪市
             山手町)・宝匡院首塚(京都府嵯峨野)・正行寺首塚(宇治市六地蔵附近)・四条畷墓
             所(四条畷雁屋南町)・甑島墓所(鹿児島県西)など様々に伝わっている。南北朝
             歴史研究家の間では非常に興味深く議論されている。

            (往生院における考察は、大日本史・太平記・拾遺・吉野拾遺・和漢三才図会・
               日本名勝地誌・河内名所図会・大阪府史蹟名勝天然記念物・群志・その他多
               数文献に基づいて記述しております。


          史実に限らず楠公さんの果たした志を考え、御供養を続けていくことが何より大切
           であるとは思います。
毎月5日は墓前供養・1月5日は祥月命日供養を務めさせて
           いただいております
作成は副住・川口英俊が行いました。



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