往生院だよりコラム 新春号より
                供養の本質

  新年明けまして、おめでとうございます。今年も誠に宜しくお願い申し上げます。
 供養ということについて最近は法話でお話しさせて頂いております。現代仏教においては、
 供養も形骸化が著しく、お坊さんの質の低下もあり、なかなかにも本質というものが見えな
 くなってしまっているように思えます。
  お坊さんを呼び、お経を唱えてもらい、お布施をする。そのことだけでは、ご先祖様がお
 喜びにはなられないと考えています。では、一体本質をどこに見いだすべきであるかという
 と、自らの存在をご先祖様に感謝し、自らが生きていることの恩に報いていくとこにあると
 考えます。
  どの宗教における供養でも大切なことは、供養を通じて、己の心を見つめていき、その中
 で、自らの存在意義、生きる道筋、辿り着くべきところについて深く考えることであると思い
 ます。
  簡単に言えば、お墓の前で、「そういえば親父はこんなことを言っていたな」「おふくろには、
 あんなことを教えてもらったな」と様々な思い出やよしみを振り返り、そして、今の自分の人生
 を見つめ、反省すべき点や改めるべきことなどを考え、ご先祖様から頂いた恩や徳というもの
 について報いていくということです。
  もしも、無くなった父や母が、上から見ておられて一番に喜ぶことは、とにかく残った私たち
 が精一杯に生き、人間としてまっとうな人生を歩み、少しでも人様のお役に立てているという
 ことであると思います。その喜ばれることを実践するために己を見つめ直すのが、実は供養
 の本質であると考えます。
  ゆえに、供養には本来、宗旨宗派は関係なく、お経や真言などもあくまでも己を見つめ直す
 きっかけのお釈迦様の言葉の要約に過ぎないと理解しています。実践に自分が生きていく
 上で、どのように欲を自制し、おかげさまの心を持ち、生かされている自分に感謝して、あま
 り自分中心・私利私欲で生きずに、ご先祖様から頂いた恩や徳に報いていけるのかが、本当
 に大切であると思います。
                                     副住職 川口 英俊 九拝



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