往生院だよりコラム 平成19年7月号より
「諸法無我について」・1

 今回は、仏教の本質の中でも「諸行無常」と並び四法印の一つとして大切な概念である「諸法無我」について述べて参りたいと存じます。
 「諸法無我」とは、端的に述べさせて頂くと、全てが変化して移ろう中にあるという無常において、全てのものには、固定した実体としての「我」は無く、また、変化しない「我」も無いのだということであります。それでも私たちは、変わらない永遠不変な何かがあるのではないかと、探し求めて彷徨い、迷い苦しんでしまうのであります(煩悩)。このように「諸行無常」・「諸法無我」という真理に暗くなってしまっている状況のことを仏教では「無明」と言います。
 そして、この世には永遠不変なものなど何も無いということが理解できず、不満の中を過ごしながら、とにかく満足を求めていくことにしがみついて、囚われてしまっている状態のことを「執着」と言います。更に、この「執着」をなかなか離すことができないという人間が本来的に持ってしまっている欲望のことを「渇愛」と呼び、これら煩悩の原因となってしまっている「渇愛」、「執着」、「無明」のそれぞれが著しく激しいことを、特に三毒として「貪」、「瞋」、「痴」と言います。
 さて、「諸法無我」のことに戻りますが、まず例えば、この解釈について、禅においては「即非の論理」(「Aは非Aであり、それによってまさにAである」)、西田(幾多郎)哲学においては、「絶対矛盾的自己同一論」(「自己は自己を否定するところにおいて真の自己である」)と表わされているものと私は考えておりますが、つまりは、「諸行無常なる変化をそのままに受け入れて、自己も既に刻々と自己で無くなっていく、変化する自己そのものが自己なのであるということをしっかりと見極めること」と私は理解しています。
 この「諸法無我」を理解することの目的は、己の自我(精神・肉体)に対する「我執」を無くし、そして、あらゆる全てのものに対しての「執着」をも同時に無くして、煩悩(特に貪・瞋・痴の三毒)を滅していくことにあると考えます。煩悩を滅するために、よく僧侶が瞑想・坐禅を行うのも、刻々と変化し続けていく自分自身を見つめて、それを真に受け入れながら、あらゆる全てについての変化をも真に受け入れて、そしてその結果、あらゆる執着を捨てていくためであります。
 ゆえに皆さんも煩悩(渇愛・執着・無明、貪・瞋・痴)を抱えてしまい、悩み苦しんでしんどくつらい状態にあるのであれば、自己を見つめ、この世のあらゆる現象を見つめながら、刻々と変化していくこの世の一切の全てを受け入れて、煩悩を無くしていくための機会として、少しの時間でも余裕を作り、瞑想・坐禅を行うことをお勧めする次第であります。
 次回のお盆特別号では、もう少し「諸法無我」について補完し、慈悲との関係についても考察したいと存じます。


 川口 英俊 拝  平成19年6月12日



 


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