往生院だよりコラム 平成19年9月 彼岸号より
「涅槃寂静」について

 今回は、仏教における四法印の一つである「涅槃寂静」(ねはんじゃくじょう)について考えて参りたいと存じます。
 涅槃寂静とは、簡単に述べますと「苦しみから解脱した静かで安楽なる悟りの境地」のことですが、苦しみの原因である煩悩・執着が完全に滅されて、再び三界(欲界・色界・無色界)の中に輪廻転生しなくなったことを意味します。
 この涅槃寂静に至るために、つまり、煩悩・執着を滅するために真なる理解が必要となるのが、何回かこの往生院だよりのコラムにおいても取り上げて、考えて参りました「諸行無常」・「諸法無我」という真理であります。
 しかし、「煩悩・執着を無くせ、滅せよ」と何度も述べてみたところで、やはり抽象論過ぎて、なかなかピンとこない部分があると考えます。そこで、今回は一歩踏み込んで具体論を扱ってみようと思います。但し、もしかすると、やや読みながら少し不快に思われるかもしれませんが、その点まずはご了承の程を賜りますればと存じます。
 まず、世俗における幸せごと、楽しみごと、歓びごとの具体例として、「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」など、たくさんありますが、現実において、では本当にそれらのことによって「幸せになった」といえるものなのかどうかについてであります。
 残念ながら、仏教においては、上記のことで本当に「幸せになる」ということはほとんどあり得ず、逆に「苦しみとなる・不幸になる」ことの方がはるかに多いとして危惧し、注意・警戒しなければならないとしています。なぜならば、上記のことで確かに一瞬・一時の快楽・幸せ・満足感・充実感があったとしても、あくまでもほとんどの場合が、一過性で、麻薬のようなものであり、結局は「執着、愛執、得た・有したという妄執」を抱えてしまうことによって、迷い・苦しみ・不満・不安が増える結果となってしまうからであります。また、世俗における争い事、様々な犯罪の原因もほとんどが上記のことに依拠しています。つまり世間においては、執着・煩悩の種となる原因を自ら喜んで作ってしまって苦しんでいるという皮肉なことが言えるわけであります。
 しかし、今さらながらにも「結婚をする」、「子どもをもうける」、「出世する」、「友達・仲間を作る」、「財産を殖やす」など、これらのことが悪い、ダメ、 やってはいけないということではありませんし、もちろん、そんなことを世俗において言ってしまったら嫌悪感を持たれて、何を言っているのだと逆に激 しく抵抗されてしまうだけのことであります。
 では、一体、何を一番に伝えたいのかというと、つまり、所詮は諸行無常・諸法無我の中、本来無一物であり、己の身体でさえも既に刻々と己のもの(所有) では無くなりつつあるのに、ましてや、「私には妻、子ども、仲間、地位、名誉、財産がある」と言っても現実は何も自分のもの(所有)になっているわけではなく、また、当然にそれらにしがみつけないし、囚われてもいけないし、こだわれないし、変わっていくものであり、何も頼りにもならず、思い通りにもならず、期待もできないということをちゃんと理解して、「執着、愛執、得た・有したという妄執」を無くしなさい、離しなさい、ということであります。そうすれば、無理に執着してしがみついて離さないように抵抗したりせずに、苦しまずに済むのであります。
 無理に執着して貪り・怒りを増幅させてしまっていけば、やがては、争い事・犯罪に巻き込まれてしまって、挙句の果てには殺人(または自殺)などの罪を犯 してしまう、更には殺されてしまうという災いにまで及び、身を滅ぼす結果となってしまうことも世間においては多々見受けられることであります。
 ですから、この世においては何も与えられてもいないものは欲さずに、例え欲を出して何かをするにしても、あるいはしてしまったとしても「執着」はしないということが第一で、貪らず、怒りも抱えず、迷惑もできる限り掛けず、「少欲知足」において過ごすことが大切になると考える次第でございます。
 但し、ここで勘違いしてはいけないことに、執着を無くすことと、自分の責任・義務を放棄することは当然に違います。例えば、執着を無くすのだと、幼い子どもを捨てたり、ほったらかしにするのは当然に悪行為で罪となります。子どもに対して親としての保護責任・監督責任は果たす必要があります。このような場合には、一人前の立派な社会人にまでしっかりと育てて、それから子どもに対しての執着を無くすようにすれば良いのであります。
 とにかく、諸行無常・諸法無我の理解を深め、執着・煩悩の種となるものをできる限りに抱えない、作らないようにして過ごしていくことが仏教的な賢い生き方というわけであります。そして、最終的には、「執着を無くすのだということにも執着をしない」というところにまで至って、再び迷いの生存に戻ってこないように、再び三界(欲界・色界・無色界)の苦しみの中に戻ってこないようにと、日々勤め励んで精進し、涅槃寂静へと向かうことが仏教の目標であると考えております。

 川口 英俊 合掌
 平成19年8月5日
 


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