往生院だよりコラム 平成19年8月お盆特別号より
「諸法無我について」・2

 今回は前号に続きまして、「諸法無我」を補完し、「慈悲」との関係について述べて参りたいと存じます。
 「諸法無我」とは、前号においても述べさせて頂いておりますが、「私だ、私がいるのだ」というような己に対しての「我執」を無くし、諸行無常の中において、自己も既に刻々と自己で無くなっていく、変化する自己そのものが自己なのであるということをしっかりと見極めて、まずは「我」に対する執着を離し、そしてあらゆるこの世における全てのことについての執着を離すことによって、煩悩を完全に滅し、三界(欲界・色界・無色界)における輪廻転生の苦しみから解脱するために必要な教えの一つであります。
 この「諸法無我」の教えの目指すところは、自は他との関係が縁となって生起しているという「因縁生起」、つまり「縁起」によってこの世は成り立っている中において、己はあくまでも「縁起」の中を生きているということを知って、自他共に生かされて生きていることを自覚し、自然に他へも「慈悲」の働きかけを生じさせていくことにあります。
 つまり、「一切皆苦」の中にいるのは、己だけではなく、他も同じであり、己の苦しみも他の苦しみも同じであることを知って、「苦しみを抜き、楽を与える」という「慈悲」の働きについて、「諸法無我」が理解できずに、己がいるのだと「我執」してしまい、何ら執着を離すこともなく、己だけに「慈悲」の行為を向けるだけでは全く意味がないものであり、当然に己と同一に他にも「慈悲」の行為を及ぼすことによってこそ、自他共に三界における輪廻転生の苦しみからの解脱を目指すことができ、「涅槃寂静」へと至ることができるようになるということと考えております。
 さて、今回の文章の中で、仏教の四法印が全て出て参りました。「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」「一切皆苦」であります。次回、彼岸号では、「涅槃寂静」について述べさせて頂こうと考えております。

 裏面には、今回の関連と致しまして「慈悲の実践について」、NPO法人CE東大阪の季刊誌・第30号に寄稿致しました文章をそのまま載せさせて頂いております。


 川口 英俊 拝 平成19年7月11日


 


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