施本 「仏教・空の理解から学ぶ」

岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成20年12月15日   執筆完了日 平成20年12月8日

施本発行 平成20年12月28日



 六、唯識思想の理解


 唯識思想は、中観思想と共にインド大乗仏教においては大潮流の一つであり、もちろん、日本にも伝わり、奈良仏教・南都六宗の一つである法相宗が、唯識教義を現在でも根本宗旨としています。

 唯識思想については、施本「仏教・〜一枚の紙から考える〜」におきまして、ある程度基本的なことを述べさせて頂いておりますので、今回はその内容を踏まえて考察して参りたいと存じます。

 龍樹による「中論」以降、中観思想の中心課題は、二諦(勝義諦と世俗諦)の解釈をめぐるものとなっていきました。縁起による否定(代表的な八不としての不生・不滅・不断・不常・不一・不異・不来・不去)から戯論寂滅へと至る道を中論は示したわけです。

 しかし、いかにして世俗諦から勝義諦へと至るかということについては、「縁起」を用いること以外で、はっきりと具体的に示されることがなかったこともあって、その後、中観思想内においても大きく二派(自立論証派・帰謬論証派)に分かれての混乱に繋がってしまったのではないかと考えられます。

 この混乱の中、中観思想の空の論理を受け継ぎ、世俗諦から勝義諦へと確かなる転換を図るために、より具体的な思想として、唯識思想が登場することとなります。

 また、般若思想・中観思想以降、「空」について、「何も無い」として勘違いしてとらわれてしまい、虚無主義的に扱ってしまう傾向もあって、今一度「空」を正しく観ずるためにも、その修正が求められたことも唯識思想が登場する下地となりました。

 唯識思想は、ヨーガ(瞑想修行)を中心として、「心のありよう」を深く洞察してゆくため
「瑜伽行(ゆがぎょう)唯識学派」と称されました。

 瑜伽行唯識学派は、「識」(ただ識別作用があるのみ)を中心として、戯論が寂滅し言語表現を超えていく領域について、中観思想における世俗諦と勝義諦をある程度、結合させる作業を進めることによって、より鮮明に真理を示めしていこうとしたのだと考えられます。

 もちろん、中観思想においては、何が勝義諦かを積極的に示そうとした自立論証派が出てきたものの、立論そのもの自体が元々矛盾を内包してしまう中では、その成果は十分に得られなかったものと考えられます。また、帰謬論証派は相手の立論の誤謬を正していくための否定のみによる論証であり、積極的には勝義諦が何かを十分に示せるものではなかったのも確かであります。

 さて、では唯識思想は、いかにして中観思想における世俗諦と勝義諦をある程度、結合させる作業を行ったのかについて、唯識思想の中核をなす教説である
「三性説」・「三無性説」について考えて参りましょう。
 「三性説」とは、この世における事象・存在のあり方について三形態に分けて示すことですが、それは、
「遍計所執性(へんげしょしゅうしょう)」・「依他起性(えたきしょう)」・「円成実性(えんじょうじっしょう)」であります。

 「遍計所執性」とは、
「あまねく計(はか)らったところのものに執着してしまうあり方」のことですが、つまり、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、思惟・思考による言説概念化によって虚妄分別したそれぞれを、実在するものとして、執着してしまっているということであります。

 「依他起性」とは、
「他に依って起こっているというあり方」のことですが、他に依って起こるとは、いわゆる「縁起」のことであります。「AによってBがあり、BによってAがある。」という縁起によってのみ仮構されての成り立ちがあるということです。

 もちろん、認識する側(能取・主観・主体)と認識の対象の側(所取・客観・客体)とにおいて、識が働くことになりますが、それは両者の相互依存によって生じている、つまり
「所取によって能取があり、能取によって所取がある。」ということであります。もちろん、それは、「十二処(六根・眼耳鼻舌身意と六境・色声香味触法)」と「五蘊(色受想行識)」の実体否定であり、縁起関係によってのみ、あらゆるものは仮に成り立っていると言えるだけのことに過ぎない、つまり「仮有・仮設」ということであります。

 そして、「円成実性」とは
、依他起性としての縁起的あり方、つまり、能取と所取という縁起的な分別のあり方を理解して、遍計所執性により虚妄分別したものへの執着もなくなって、縁起においての存在のあり方は、その縁起におけるあり方においてのみ言えるだけのことで、本来は無分別であり、そのあるがままは、あるがままであるという、諸法実相・真如のことを示しているのであります。

 そして、次に三性説についての各否定的側面として三無性説、
「相無自性」・「生無自性」・「勝義無自性」が示され、空の論理についても補完して説明されます。

 遍計所執性に対応する否定として「相無自性」が説かれます。この場合の「相」は、遍計所執した事物についてのあり方、特質というものですが、私たちは、
事物を認識する時に、「それは、このようなあり方、特質がある」とします。しかし、そのあり方、特質も、例えば、温かい・冷たい、大きい・小さい、堅い・軟らかい、強い・弱いなどの性質についても、ただ縁起関係において分別して言えているだけのものであって、ただそれだけのことに過ぎないとして、無自性を示すのであります。

 依他起性に対応する否定としての「生無自性」とは、
縁起「AによってBがあり、BによってAがある。」としての仮においてA、Bが生じているだけのものであり、Aそのもの、Bそのもの自体で生じるものとは言えないとして無自性を示すのであります。

 円成実性に対応する否定としての「勝義無自性」とは、
いかなるあり方、特質としても決定されるものはない、勝義そのもの、円成実性としてのあるがままはあるがままという真如・実相にもとらわれることができる自性が無いという無自性・無相を示したのであります。

 
三無性は、三性における「有」にとらわれてしまうことを避けるために、その三性それぞれも「空」・「無自性」であるということを示して、「有る」にとらわれず、また「無い」にとらわれない「非有非無」のありよう、中道について改めて示し、更に「空と不空」にもとらわれないために説かれたものであると考えられます。

 
空性とは、もちろん実体がない、無自性ということですが、全てのものが空であり戯論を離れて、言語表現・言説の一切を認めないということに終始してしまうものとなってしまえば、「何も考えないのでよいのだ」として、無思・無念・無想が第一だと陥ってしまったり、善も悪もない、正も誤(邪)もない、世間における道徳的・倫理的行為実践も意味がない、のみならず、宗教、仏教そのものも意味がない、四法印も四諦も意味がない、「何も無いのだ」として空を扱ってしまう懸念を、何としても避けるために、唯識思想においても空に対して、空にとらわれてしまい過ぎないように論理補完が成されたのであると考えます。

 中論・「観行品」(第十三・第八偈・第九偈)『もしも非空である何ものかが存在するとするならば、空である何ものか〔が存在することになるであろう〕。〔しかし〕非空である何ものも存在しない。どうして、空であるものが存在するであろうか。』、『空であること(空性)とはすべての見解の超越であると、もろもろの勝者(仏)によって説かれた。しかるに、およそ、空性という見解をいだく人々〔がおり〕、かれらは癒し難い人々であると、〔もろもろの勝者は〕語った。』

 中論・「観如来品」(第二十二・第十一偈)『「空である」と語られるべきではない。〔そうでなければ〕、「不空である」、「両者(空且つ不空)である」、また「両者(空且つ不空)ではない」ということになるであろう。しかし、〔これらは〕想定(仮に説く)のために説かれるにすぎない。』

 中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』

 とありますように、
「空と不空」との「縁起」関係をも最後には超越していくことを観じなければならないということであります。

 それは、
般若思想・中観思想が示した空性が、その空性としての意義を保ちつつも、その空性が意図している目的である空用も理解し、空の世俗的なあり方としての空義をもしっかりと考えなければならないということであります。

 つまり、
空性とは、一切の存在・事象を実体として見るとらわれを離れ、主客二分による分別は虚妄であることを知り、無分別を理解して、また、縁起関係にあるあらゆる相対・対立をも超えた「不二絶対」を明らかに知見していくことが重要であり、空性はいわゆる「無分別の智・不二の智」のことであります。

 
その空性の「無分別の智・不二の智」により、分別・戯論・煩悩が止滅される働き、分別から無分別、不二絶対の平等へと至るための働きが空用であり、空義とは、「無分別の智・不二の智」によって、最終的には、世俗諦も勝義諦も分別が無くなり、世俗諦から勝義諦へ、勝義諦から世俗諦へ、自在にその両方の真理を行き来できるようになって、諸法の実相を明らかに観ていくことであります。諸法の実相とは、真如ということでもあります。

 戯論寂滅が、何も考えない、何も思わないことだと、あまりにとらわれ過ぎてしまう危惧も避けていくことが必要なのであります。

 
空を理解し、無分別、言語道断、戯論寂滅の重要性について鑑みるのは、実に大切なことであります。しかし、そこで留まってしまっては本当の意味での深遠なる真実義を見極めたとは言えず、では次に、いかにして世俗においても智慧を働かしていくべきであるのかということが、更に問われてくるところなのであります。

 唯識……
「ただ識のみ」として、まず『こころ』があるとして認めるところから始まる唯識思想は、真理を外界に求めるのではなく、「こころ」の内に真理を求め、己の「こころ」が全ての事象・存在を作り出しているに過ぎないのであるとして、その「こころ」による識別作用・思惟分別作用というものが虚妄分別を起こし、その分別したものにとらわれて迷いの中に陥ってしまっているのだという原因に気づき、その上で、三性説・三無性説を理解し、迷い・煩悩の「こころ」のありようを真に悟り、次に智慧を働かせていけるように「こころ」を迷いから智慧のありようへと転換させていくという「転識得智(てんじきとくち)」が大切になるということであります。

 そして、最終的には、「ただ識がある」として、唯識思想展開の中心である「識」についても当然に「空」であり、「不空」であり、そのとらわれからも離れていかなければならないのであります。

 唯識の識については、基本として「八識」について説明されますが、ここでは改めての説明は行いません。詳しくは、施本「仏教・〜一枚の紙から考える〜」をご参照頂ければと考えております。

 根本煩悩、小随煩悩・中随煩悩・大随煩悩に惑わされることなく、十一善を行い、五道・六波羅蜜を実践して、前五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)、意識、末那識(まなしき)・阿頼耶識(あらやしき)のありようを智慧へと転換させていかなければならないのであります。

前五識……成所作智(じょうしょさち)

 
所作を成ずる智慧で、大・中・小の随煩悩に惑わされることが無くなり、心・口・意の三業が清浄に保たれるようになったこと。

意識……妙観察智(みょうかんさっち)

 
根本煩悩である貪・瞋・痴・慢・疑・悪見を滅し、この世のあらゆることに対しての虚妄分別が無くなり、実相のそのままを観じ察することができるようになったこと

末那識……平等性智(びょうどうしょうち)

 自我に執着している自我意識、我執を無くし
、我見・我痴・我慢・我愛の四つの根本煩悩を滅し、我空を理解して、主客の分裂が無くなり、自他分別も無くなって、法空も理解し、この世のあらゆるものを自他平等・不二平等に識できるようになったこと

阿頼耶識……大円鏡智(だいえんきょうち)

 あらゆるもののあるがままの真理が、あるがままにそのままくっきりと、あたかも鏡のように識に映るようになり、そこではもはや何らの分別も生じることなく、無分別の智、不二の智が働くように識が調った境地。
まるで湖面(識)に何ら波風(虚妄分別・煩悩)が立たず、澄み切った鏡の如くに、その湖面の上に往来し現れる(識される)あらゆる全てのあるがままが、そのまま(無分別・不二・平等に)くっきりと映し出されているようなイメージであると考えます。

 また、唯識思想は、大きく有相唯識派と無相唯識派の二派に分かれていくことになりました。

 その二派は、「能取・主観・主体と所取・客観・客体」の「二取」における「形象・相」が実在するのか、実在しないのかという点において激しい議論が展開されていきます。

 基本的には、無相唯識派の流れが主流でありましたが、論理学の発展とともに、真理を示すための論理的言語・言葉を重視する立場が、その論理的言語・言葉を理解するためには、自他共通の「二取」における「形象・相」がなければならないという主張において、有相を説き、有相唯識派が登場したのであります。

 また、唯識思想の発展過程においては、三性説の「依他起性」のあり方について、あくまでも「有」として解した唯識派と、「依他起性」のあり方については「有るとは言えない」として解した中観派とが激しく対立した時期があったものの、唯識思想の説く空の論理については中観派からも歩み寄る傾向もみられ、「縁起」をめぐっての解釈についても両思想において徐々に醸成されていく中、中観派と唯識派の両理論についての学びを統合して進めていく「瑜伽行中観派」が誕生していくのであります。

 とにかく
、空を正しく観じていくためには、やはり「縁起」の理解が重要であり、「縁起を見る者は、法(真理)を見る。法(真理)を見る者は、縁起を見る。」と言われますように、「縁起」の理解を確実に及ぼしていくことが唯識思想においても求められるものであると考えます。


 次に、唯識思想の代表的教説である「唯識三十頌」について、漢文読み下し文と邦訳を載せておきます。
唯識三十頌

 世親菩薩造 玄奘三蔵法師漢訳

 漢文読み下し文

 唯識の性において、満に分に清浄なる者を稽首す。我、今、彼の説を釈し、諸の有情を利楽せん。

一 仮に由りて我・法と説く。種々の相転ずること有り。彼は識の所変に依る。此が能変は唯三つのみなり。

二 謂わく異熟と思量と、及び了別境との識ぞ。初めは阿頼耶識なり、異熟なり一切種なり。

三 不可知の執受、処と了とあり。常に触と、作意と受と想と思と相応す。唯だ捨受のみなり。

四 是れ無覆無記なり。触等も亦た是の如し。恒に転ずること暴流の如し。阿羅漢の位に捨す。

五 次は第二の能変なり。是の識を末那と名づけたり。彼に依りて転じて彼を縁ず。思量するを性とも相とも為す。

六 四の煩悩と常に倶なり。謂わく我癡と我見と、併びに我慢と我愛なり。及び余の触等と倶なり。

七 有覆無記に摂められ、所生に随って繋せらる。阿羅漢と滅定と、出世道とには有ること無し。

八 次は第三の能変なり。差別なること六種あり。境を了するを性とも相とも為す。善と不善と倶非となり。

九 此の心所は遍行と、別境と善と煩悩と、随煩悩と不定となり。皆三の受と相応す。

十 初の遍行とは触等なり。次の別境とは謂く欲と、勝解と念と定と慧なり。所縁の事は不同なるをもってなり。

十一 善とは謂く信と慚と愧と、無貪等の三根と、勤と安と不放逸と、行捨と及び不害とぞ。

十二 煩悩とは謂く貪と瞋と、癡と慢と疑と悪見とぞ。随煩悩とは謂く忿と、恨と覆と悩と嫉と慳と、

十三 誑と諂と害と驕と、無慚及び無愧と、掉挙と昏沈と、不信と併びに懈怠と、

十四 放逸と及び失念と、散乱と不正知となり。不定とは謂く悔と眠と、尋と伺とぞ。二に各々二つあり。

十五 根本識に依止す。五識は縁に随って現ず。或ときは倶なり、或ときは倶ならず。濤波の水に依るが如し。

十六 意識は常に現起す。無想天に生じたると。及び無心の二定と、睡眠と悶絶をば除く。

十七 是の諸の識は転変して、分別たり、所分別たり。此に由りて彼皆無し、故に一切唯識なり。

十八 一切種識の、是の如く是の如く変ずるに由り。展転する力を以ての故に、彼彼の分別生ず。

十九 諸の業の習気と、二取の習気と倶なるに由りて、前の異熟既に尽きぬれば、復た余の異熟を生ず。

二十 彼彼の遍計に由りて、種種の物を遍計す。此の遍計所執の自性は所有無し。

二十一 依他起の自性の分別は縁に生ぜらる。円成実は彼がうえに、常に前のを遠離せる性なり。

二十二 故に此れは依他と、異にも非ず不異にも非ず。無常等の性の如し、此を見ずして彼をみるものに非ず。

二十三 即ち此の三性に依りて、彼の三無性を立つ。故に仏、密意をもって、一切の法は性無しと説きたまふ。

二十四 初のには即ち相無性をいふ。次のには無自然の性をいふ。後のには前きの所執の我・法を、遠離せるに由る性をいふ。

二十五 此は諸法の勝義なり。亦は即ち是真如なり。常如にして其の性たるが故に、即ち唯識の実性なり。

二十六 乃し識を起こして、唯識性に住せんと求めざるに至るまでは、二取の随眠に於て、猶未だ伏し滅すること能わず。

二十七 現前に少物を立てて、是れ唯識の性なりと謂えり。所得有るを以ての故に、実に唯識に住するには非ず。

二十八 若し時に所縁のうえに、智が都て所有無くなんぬ。爾の時に唯識に住す。二取の相を離れぬるが故に。

二十九 無得なり不思議なり。是れ出世間の智なり。二麁重を捨つるが故に、便ち転依を証得す。

三十 此は即ち無漏界なり。不思議なり善なり常なり。安楽なり解脱身なり。大牟尼なるを法と名づく。 

 巳に聖教と及び正理とに依りて、唯識の性と相との義を分別しつ。所獲の功徳をもって群生に施す。願くは共に速かに無上覚を証せん。

 邦訳は、「唯識の探求」竹村牧男著・春秋社より引用

一 我・法に関する種々の言語表現がなされるが、それはすべて識の転変においてである。そしてその転変とは、三種であって、

二 異熟と、〔我の〕思量といわれるものと、対境の了別とである。その中、異熟は、阿頼耶という識であり、一切の種子をもつ〔識〕である。

三 それはまた、知られることのない、執受と住処との了別を有している。〔また〕常に、触・作意・受・想・思にともなわれている。

四 そこでは(阿頼耶識においては)、受は捨受である。それはまた、無覆無記である。触等も同様である。それは河のように、流れ〔のあり方〕において生起する。

五 その〔阿頼耶識の〕捨離は、阿羅漢たる者においてである。それに依拠して、それを所縁(対象)とする、意という名の識が起きる。〔我の〕思量を自性とするものである。

六 常に、有覆無記の四つの煩悩、我見・我癡・我慢・我貪といわれるものと一緒にある。

七 〔それも〕生まれた所〔の界・地〕に属する〔四つの煩悩〕と、である。および他の触等〔の心所〕とも〔一緒にある〕。それは阿羅漢にはない。滅尽定においてもなく、出世間道においてもない。

八 これが第二の転変である。第三は、六種の対境を認得するものである。〔それは〕善・不善・非二〔のいずれもありうるもの〕である。

九 これは、遍行と別境と善の心所と相応し、同様に、煩悩と随煩悩とも〔相応するの〕である。〔なおその中、受には〕三受ある。

十 初めのもの(遍行)は、触等である。欲・勝解・念と、それから定と慧とが、別境である。また、信と慚と愧と、

十一 無貪等の三と、勤と軽安と不放逸と、〔それと〕倶なるものと不害とが、善である。煩悩は、貪・瞋・癡と、

十二 慢・見・疑とである。さらに、忿・恨・覆・悩・嫉・慳と、また誑と、

十三 諂・驕・害・無慚・無愧・昏沈・掉挙・不信、また懈怠・放逸・失念、

十四 散乱・不正知と、また悔と眠そのものと、尋と伺とは、随煩悩である。二組の二(悔と眠、尋と伺)は、各々二種である。

十五 五識は、根本識から、縁にしたがって、一緒に、あるいはそうではなく、生起する。ちょうど、水における諸々の波のようである。

十六 意識は、無想果と、二つの禅定と、睡眠および気絶という無意識の状態を除いて、常に生起する。

十七 この識の転変は分別である。それによって分別されたものは存在しない。それ故、この一切は唯だ識のみのものである。

十八 〔阿頼耶〕識は、一切種子をもつ〔識〕である。〔その〕転変は、〔転識と阿頼耶識または種子の〕更互の力によって、そのようにそのように進んでいく。そのことによって、それぞれの分別は生じるのである。

十九 業の習気は、二取の習気とともに、前の異熟が滅したとき、他の異熟であるそれを生じる。

二十 どんな分別によってどんな事〔物〕が分別されたとしても、それは遍計所執性である。それは存在しない。

二十一 依他起性は分別であり、〔それは〕縁によって生じる〔から依他起性な〕のである。円成実〔性〕は、それ(依他起性)が、常に前の〔遍計所執性〕を離れていることそのことである。

二十二 この故にこそ、それは依他起〔性〕と別ではないし、別でないのでもない。〔この関係は〕無常性〔と無常なる事物〕等のようにいわれるべきである。これ(円成実性)が見られないとき、それ(依他起性)は見られない。

二十三 〔今の〕三性に関し、三種の無自性性(無自性を本性とすること)があることを〔内には〕秘かに考えておいて、〔『般若経』等には〕「一切法は無自性を本性とする」と説かれたのである。
 
二十四 初め(遍計所執性)は、実に相によって無自性である。また、次(依他起性)は、これには自らあるもののあり方がない、というのが、次の無自性性である。

二十五 そして、それ(円成実性)は諸法の勝義であるから〔勝義無自性性〕なのである。
それはまた、真如である。一切時に、その如く〔変らずに〕あるからである。それこそが、唯識実性にほかならない。
 
二十六 唯だ識のみであることに、識が住しないかぎり、その間は二取の随眠は止滅しない。

二十七 これは唯だ識のみにほかならない、というのもまた、実に対象的認識故に、〔いわば認識主観の〕面前に何ものかを立てるので、「唯だそれのみ」にはなお住していない。

二十八 識が、所縁(対象)を得ることがまさに無くなったとき、唯だ識のみ、ということに住したのである。〔というのも〕所取がないとき、それを取ることがないからである。

二十九 これは無心であり、無所得である。それはまた、出世間の智である。転依である。二種の粗重を断じたが故に。

三十 それこそが無漏界であり、不思議であり、善であり、永遠である。これは楽であり、解脱身である。これが大牟尼の法といわれるものである。

 邦訳引用……ここまで。

 さて、この章では、特に唯識思想の三性説・三無性説について考察させて頂きました。

 更に、阿頼耶識についての詳しいことや、無相唯識派と有相唯識派との対立論点の整理、瑜伽行中観派の思想発展、あるいは阿頼耶識と如来蔵思想との関連についてなども考察して参りたいと思いますものの、今回の本論の構成上、ここでは省略させて頂きまして、機会がありましたら次回以降において扱いたいと考えております。



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 章


 一、はじめに

 二、仏教・基本法理の理解

 三、般若思想の理解

 四、般若心経の理解

 五、中観思想の理解

 六、唯識思想の理解

 七、仏教の実践

 八、縁起・空の理解からの実践

 九、仏教的生き方

 十、最後に

 参考・参照文献一覧


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