施本 「仏教・空の理解から学ぶ」

岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成20年12月15日   執筆完了日 平成20年12月8日

施本発行 平成20年12月28日



 八、縁起・空の理解からの実践


 次に、縁起・空の理解からの実践について、もう少し簡単に述べてみたいと存じます。

 
縁起とは「AによってBがあり、BによってAがある。」と、AもBも、縁起関係によって、AだBだと言えているだけのことで、Aという実体、Bという実体があるわけではない、つまり、空性であり、そのことは、AもBも縁起関係において「仮」にあるものとして示されているに過ぎない、「仮」というのは、つまり、AもBも本来的にはどちらにも実体が無く、有るわけではないし、また何も無いわけではないということで、AにもBにもかたよらない、とらわれないという、すなわち「中道」を理解しなければならない、ということであります。

 更に、
縁起関係においては、もしも、A、Bのいずれか一方にかたより、とらわれて、Aという実体、Bという実体を思惟分別してしまえば、必ず相対矛盾に陥って迷い苦しむことになってしまいます

 そこで、輪廻の迷いとは何かということについても、ここで少し「幸せ」と「不幸せ」の関係から考えてみたいと思います。

 私たちはたいてい「幸せ」を求めて生きているつもりであります。

 もちろん、「幸せ」とは、「不幸せ」との縁起関係において、仮に言えるだけのことであり、「幸せによって不幸せがあり、不幸せによって幸せがある。」であります。

 もちろん、「幸せ」、「不幸せ」という実体が何かあるというわけではありません。本来的には、何が幸せで、何が不幸せかなどは誰にも決めようのない、分からないものでしかないのであります。

 しかし、私たちは、「幸せ」という実体があるものとして勘違いし、かたより、こだわり、とらわれて、執着してしまいがちであります。

 とにかく「幸せ」になりたいと、世間で多くの人が「幸せ」だとしてかたより、こだわり、とらわれて、執着しているものを私たちは求めてしまっていきます。それは例えば、財産、権力、地位、見栄、名誉など色々とあります。

 ただ、生きていくために必要な衣・食・住・薬を得るためのお金、財産などまでを、ここで否定するわけではありませんのであしからずご了承頂ければと思います。

 あくまでもここでは、財産、権力、地位、見栄、名誉などを求めて得ようとしていったからといっても「幸せ」をもたらすものだとしての執着はできないということを、「縁起」関係をもって示そうとしているのであります。もちろん、当然にそれらを求めて得られなかったからといっても「不幸せ」だとして執着もできないということであります。

 繰り返しとなりますが、世間的に「幸せ」をもたらすものとして勘違いしてしまいがちな、財産、権力、地位、見栄、名誉などを求めて得られたとしても、「幸せ」になったり、求めて得られなくて「不幸せ」になったりすることも、それは、ただ「縁起」の関係において言えているだけに過ぎないものであるということであります。

 もしも、「幸せ」という実体があるとして、その実体を得られたとするならば、本当は、それはもはや「幸せ」でも「不幸せ」でもどちらでもないのであります。

 なぜならば、「幸せ」は、「不幸せ」があるという縁起関係だけのことで言えるのであり、どちらか一方の世界だけとなってしまったならば、何が幸せで、何が不幸せかが、もはや分からなくなってしまうのであります。

 更に、「明と暗」の関係に置き換えて少し考えてみましょう。

 もしも、「幸せ」を求めて、「幸せ」になれると世間の多くの人が考えているようなものを多く求めて、得られていけたとして、その幸せの要因になると思っているものをどんどん増やしていくこととしましょう。どんどんと幸せが増えていき、世間の多くの人が考えているような「不幸せ」は減っていきます。

 いわゆる、「明」を求めて、「明」の場所を増やしていき、「暗」の場所を減らしていくのと同じことであります。

 では、もっとその「幸せ」を増やして全てを「幸せ」にできたとしましょう。つまり、全てが「明」になったということですが、その瞬間に、それは、もはや「明」でも「暗」でもなくなってしまうのと同様に、「幸せ」でも「不幸せ」でもなくなってしまうのであります。

 全てが「幸せ」になったと思った瞬間に、それは「幸せ」でも「不幸せ」でもなくなってしまい、路頭に迷ってしまうのであります。

 それは嫌だ、「幸せを求めていたはずなのにどうしてなのか」と怒り、不満となり、今度は、「幸せ」が何かを改めて分かっていくために、逆に世間の多くの人が「不幸せ」と考えていることを増やしていくことにしましょう。

 いわゆる「明」を知るために、今度は「暗」の部分を増やしていくということであります。この場合、「幸せ」が何かを知るために「不幸せ」を増やしていくということであります。普通に考えますと「不幸せ」を増やすなど、そんな馬鹿なことはありえないと思うかも知れませんが、注意深くよく世間を観察してみますと、意外にも世間の考える「幸せ」の絶頂から、世間の考える「不幸」のどん底に一気に転落していく者が後を絶たないのも現実であります。

 さて、話を戻しまして、今度は「不幸せ」を増やしていけばいくほどに「幸せ」が何かが、より鮮明に分かって知ることができます。「ああ、これが幸せか」と、更にもっと知りたいと「不幸せ」を増やし、「幸せ」を際立たせたいと進め、いよいよ「不幸せ」ばかりになってしまったとしましょう。

 するとその瞬間には、もう「不幸せ」でも「幸せ」でもなくなってしまい、またも何が「幸せ」で、何が「不幸せ」かが、分からなくなってしまうのであります。

 今度は、またそれは嫌だとして、始めと同じように「幸せ」を増やしていこうとします。

 もうここからは繰り返しになるため述べませんが、「迷いのループ」に陥っていくのであります。

 もちろん、
「幸せ」も「不幸せ」もそのような実体が無いために、いくら頑張ってどちらかを追い求めようとしても、結局は最後に両者共に完全否定されてしまうことになるのであります。

 つまり、
縁起関係における両者は、実体として分けて、とらわれてしまうと必ず相対矛盾・対立矛盾の中に陥ってしまうということで、このことを理解しない限り、永遠に迷いの中、矛盾関係に悩み苦しみ続けてしまうことになります。いわゆるこのことが簡単に言いますと「輪廻」ということではないかと考えます。

 
輪廻を繰り返す原因の第一は、真理を知らないという「無明」のことであります。

 
「幸せ」も「不幸せ」も、勝手な思惟分別によって私たちがとらわれているだけのものであり、実体があるとして妄想・虚妄してしまっているだけで、しっかりと、縁起、空を理解した者は、思惟分別・虚妄分別を離れ、無分別の智慧を働かせて、たとえ世間で多くの人が「幸せ」、「不幸せ」と考えているようなことについても、全くかたより、とらわれが生じないのであります。

 特に、
世間が考えているような「幸せ」になろうが、「不幸せ」になろうが、別に何らどうってこともなく、そのいずれにもとらわれて執着することがないのであります。

 それは、もしも、どちらかにかたよって、とらわれて執着してしまえば、必ず迷いのループに陥ることを十分に知っているからでもあります。この迷いのループを離れることが、つまり
「輪廻からの解脱」と言えるのではないかと考えます。

 また、何も「幸せ」・「不幸せ」のみならず、
あらゆることについても縁起・空を理解すれば、分別して、とらわれることがなくなるということであります。

 さて、正も誤も、善も悪も、好きも嫌いも、愛も憎も、綺麗も汚いも、生も滅も、ただ縁起関係において仮に成り立っているだけで言える、それだけのことに過ぎず、それぞれに何か実体があるということではないのであります。

 のみならず、仏教においては目標とされる「悟り」でさえも、
「悟りによって迷いがあり、迷いによって悟りがある。」として、「悟り」と「迷い」も、その実体が何かあるわけではなく、とらわれることはないのであります。つまり、「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」ということです。

 当然に「空」についても、
「空によって不空があり、不空によって空がある。」として、「空」が説かれているだけに過ぎず、何か「空」という実体があるわけではありません。ですから「空」にとらわれてしまってもいけないのであります。

 また、更には「勝義諦」についても、
「勝義諦によって世俗諦があり、世俗諦によって勝義諦がある。」ということも最終的に理解することが大切なこととなります。

 
空・縁起を理解している者は、世間において多数の人々が虚妄分別して考えているような、いかなる事、例えば「憂い・恐怖・悲しみ・不幸せ・苦しみ・落ち込み・怒り・憎悪・嫌悪・敵意」事や「喜び・幸せ・快楽・享楽・愛着・好意」事などがあったとしても、もはや、心が何ら動揺することはなく、平常心において、そのあるがままをあるがままとしての受け入れだけが淡々と進んでいくということであります。

 また、
分別してしまったことに、かたより、こだわって、とらわれて、執着することはできないので、何事においても、「縁起・空・非有非無、非○非×の中道」を理解しての「少欲知足」もこの世で過ごす上では重要になるということであります。

 もちろん
、かたよって、こだわって、とらわれて、執着するなとは言っても、何も生きていくために最低限必要なものまでを否定するわけではありませんので、そのことは十分に注意が必要となります。

 例えば、財産・権力・地位・見栄・名誉などの扱いについて、勝義諦的には、
本来無一物、有所得(うしょとく)寂滅ですが、世俗諦的には、一応は仮にあるものとして、その扱いについては、かたより、とらわれ、執着を離すための「少欲知足」が大切になるということであります。

 この場合の勝義諦的なことについて、中論では、「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』として示されています。また、この偈の後半部分では、般若心経における、お釈迦様が説かれた「四聖諦」についてもその実体が無いとして否定されたことと、同じことが実は述べられているのであります。

 
勝義諦的なことと、世俗諦的なことの両方を理解していきながら、何事においても、いかなることがあっても、動じずに、かたよらず、とらわれずに、極端な享楽・快楽に溺れてしまったり、悲観・虚無に陥ったり、自暴自棄になったりせずに、心を平穏に調えていかなければならないのであります。

 「幸せ」と「不幸せ」の縁起関係の理解については、
「人間万事塞翁(じんかんばんじさいおう)が馬」・「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」と表されている故事の意味ともほぼ同じことではないだろうかと思います。

 両者とも、「禍福のいずれかに、かたよってとらわれて執着してしまって苦しむことはやめなさいよ」、と教えるために説かれた故事でありますが、今回の縁起的観点から考えてみても改めて理解が及ぶものではないだろうかと思います。

 さて、これまで考察して参りましたように、
表象・認識・概念における分別の全ては、いわゆる主体と客体の分裂に起因することでもあり、特に、人無我(人空)と法無我(法空)をしっかりと理解し、無分別なるありようを観れるように調えていかなければならないということであります。そのためには、煩悩障と所知障の二障を離れることが必要となります

煩悩障(ぼんのうしょう)……「我執」によって生じる煩悩による障りのことであります。「我執」とは、「これが自分である、自分が有るのだ、自分がいるのだ」と強く執着してしまって、そのことで生じてくる煩悩が解脱・涅槃へと至る障りとなってしまっているということであります。

所知障(しょちしょう)……「法執」によって生じる煩悩による障りのことであります。「法執」とは、「知るところのもの・こと」を有る、実在するとして、強く執着してしまって、そのことで生じてくる煩悩が解脱・涅槃へと至る障りとなっているということであります。

 この二障を断じて、「我執」と「法執」を離れ、「人空」と「法空」を真に理解して、煩悩を離れていくことが大切になるのであります。

 もしも、私という何か実体があるならば、食べ物や飲み物が無くても、他の人間や動物や植物が無くても、空気が無くても、自然が無くても、地球が無くても、太陽系が無くても、宇宙が無くても存在できるはずであります。

 ところが、独り宇宙空間に放り出されてしまったとすれば、あっという間に生命体として、その存在は維持できなくなってしまいます。

 もちろん、
私というものは、縁起関係において仮に存在できているという仮有なるものだとしても、それは、あらゆる大いなる縁起関係の中において「生かされて生きている」ものとして私たちは存在できているのであり、そのことをしっかりと理解して、その縁起関係の中、感謝と報恩を日々実践していかなければならないのであります。

 そこで、
その大いなる縁起を理解し、無分別・不二・平等の中において、例えば自分のやられて嫌なことは、他の者も、いかなる生き物たち、ミミズもアリもゴキブリも当然に嫌なのだと知り、また、自分のしてもらって嬉しいことは、他の者も、いかなる生き物たち、ミミズもアリもゴキブリも嬉しいのだということを知って、自分が無碍にも踏み潰されて殺されてしまったら嫌なように、動物や昆虫、植物たちも同様に嫌であり、自分が苦しくてつらく、しんどい時に助けてもらって嬉しいことは、動物や昆虫、植物たちも同様に嬉しいということであります。

 このように、
自分のやられて嫌なことは、他のいかなるものにも分け隔てなく平等にしないこと、自分のしてもらって嬉しいことは、他のいかなるものにも分け隔てなく平等にしてあげていくこと、これが自利利他、慈悲の実践としても重要な前提になるのではないかと考えます。

 更に慈悲の実践を考える上で大切なことにつきましては、前回施本においても取り上げさせて頂きました「ブッダのことば・スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」、第一・蛇の章・八・慈しみ(一四三偈〜一五二偈)から今一度、引用しておきたいと思います。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔(にゅう)和(わ)で、思い上ることのない者であらねばならぬ。』

『足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。』

『他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏(あんのん)であれ、安楽であれ。』

『いかなる生物(いきもの)生(しょう)類(るい)であっても、怯(おび)えているものでも強(きょう)剛(ごう)なものでも、悉(ことごと)く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗(そ)大(だい)なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。』

『何ぴとも他人を欺(あざむ)いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。』

『あたかも、母が己(おの)が独(ひと)り子を命を賭けても護(まも)るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。』

『また全世界に対して無量の慈しみの意(こころ)を起すべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。』

『立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥(ふ)しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。』

『諸々の邪(よこし)まな見解にとらわれず、戒(いましめ)を保ち、見るはたらきを具(そな)えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。』 

 思惟分別して、分別したことのどちらかにかたより、こだわり、とらわれて執着してしまい、特別としたり、何か価値を与えてしまってもいけないのであります。自分も、自分の子も、他の子も、好きな者も嫌いな者も、動物も植物も、ミミズもゴキブリもどんな微生物でも、皆、無分別の扱いにて同じであり、分けて考えてしまうことはできないのであります。分けてしまえば、相対・対立矛盾を抱えて迷いのループに陥ってしまうのであり、それは何としても避けなければならないのであります。

 このように無分別・不二・平等のありようについての実践を、縁起と空の理解をもって調えていくのが、仏教においては非常に大切なことになるのであります。

 これまで何度も紹介させて頂いております「日本テーラワーダ仏教協会」さんの慈悲の瞑想の言葉もここに記しておきたいと思います。

慈悲の冥想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶えられますように
私に悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願い事が叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

慈悲の冥想ここまで

 たとえ少しずつでも、毎日継続して、慈悲の実践が行えるように、しっかりと調えて参りましょう。



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 章


 一、はじめに

 二、仏教・基本法理の理解

 三、般若思想の理解

 四、般若心経の理解

 五、中観思想の理解

 六、唯識思想の理解

 七、仏教の実践

 八、縁起・空の理解からの実践

 九、仏教的生き方

 十、最後に

 参考・参照文献一覧


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