施本 「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
 
ホームページ公開日 平成20年1月28日
   執筆完了日 平成20年1月21日

施本発行 平成20年2月21日

著者 川口 英俊
 二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解

 さて、まず宜しければ、「一枚の紙」を読者の皆様方それぞれの手元にご用意下さい。それから本論は始まります。

 白紙の普通のコピー用紙でも構いませんし、大きさ、形状は特に問いません。

 ご用意できましたでしょうか。

 それではまず、私たちが「紙」と呼んでいるものにつきまして考えてみましょう。「紙」とは、字を書くために、筆記媒体として私たち人間が作り出して開発されたものであります。当然に自然界においては存在していません。

 紙の起源は、古代エジプトまでさかのぼり、「死者の書」が記されていることで有名であるカヤツリグサ科の植物の名である「パピルス」であります。英語で紙を意味する「paper」の語源は、この「papyrus」に由来しています。

 パピルスへの筆記は、主に葦《あし》のペンが用いられ、青銅製のペンも使われることもありました。

 パピルスは、手紙や簡単な文書の筆記には、大いに役立ちましたが、強度上の問題などがあり、多くの文章を記すには限界がありました。特に膨大な文章量を扱う仏典・聖書などを記す場合には、大変不向きであり、紀元前百五十年頃に中国で発明されたとされている今日私たちが普通に「紙」と呼んでいるものが、その後、世界中で利用されるに至ります。実質はこの中国での発明の「紙」が起源であるとも言えるでしょう。

 この「紙」の発明までは、古代エジプトの「パピルス」と同様に、古代メソポタミアの「粘土板」やインドの「椰子《やし》の葉」、中国・韓国・日本の「木簡《もっかん》」・「竹簡《ちくかん》」・「絹布《けんぷ》」などがありましたが、いずれも大量の筆記、長期保存、運輸には不向きでありました。

 中国での「紙」の誕生以降、色々と便利に使うために改良が繰り返される中、一四五○年頃、ヨーロッパにおいてグーテンベルグが活版印刷を発明したことで、印刷物が大量に造られるようになり、紙の需要は一気に増大、製紙技術も更に進歩し、現代私たちが使っている「紙」へと進化していったのであります。

 「紙」の原料は、植物繊維のセルロースが主成分で、セルロース間の水素結合によって構成されています。

 さて、「紙」について、主に筆記媒体として使われるものと述べて参りましたが、それを私たちは、段ボールなどのように箱として使ったり、ティッシュペーパー、トイレットペーパーとして使ったり、包装や折り紙として使われるなど、用途も多様になりました。現代社会においては、私たちの生活必需品として、「紙」は大いに役立っています。

 更には、私たちが普段「紙」と呼んでいるのは、もう少し詳しく述べると「セルロースの水素結合体」と先に述べましたように、セルロースは、元素記号、炭素(C)と水素(H)と酸素(O)の化学反応で構成されています。水素結合は水によってすぐに切れてしまう性質のため、紙は水に弱く、また燃やすとあっという間に燃えてしまうものでもあります。

 元が「紙」であったとしても、水に溶けてしまったものや、燃えてしまったものは、もう「紙」と私たちは呼びません。あくまでも「紙」とは、一時の化学反応体、先に挙げさせて頂きました用途で使う場合の時に「紙」と呼称しているだけのことであり、化学反応によって変化したり、また厳密に言うと分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしくダイナミズム(躍動)、生滅変化を繰り返しているものであります。

 私たちが普通に「紙」と呼称するものについて、「では、あと一万年後、百万年後にもそれは存在していると思いますか」と質問すると、ほとんどの人は、「もう無くなっている」とお答えになるでしょう。書いた内容も当然に残っていないと想像できることでしょう。もちろん特殊保存するなどすれば別ですが、普通の自然界の中において、そのままにしておけば、徐々に色は変わり、化学変化して腐食していき、また水に濡れたり、燃えたりすると、脆くも無くなってしまうものであります。

 しかし、それは何も百年後だから、一千年後だから急に起こる変化ではありません。実は瞬間、瞬間においてさえも、既に分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしくダイナミズム(躍動)、生滅変化を繰り返しているため、これが「紙」とピタッと止めて「紙」とすることは、実は瞬間でさえもできず、永遠にあるものでは無く、永久に変わらないものでもありません。

 あくまでも私たちが「紙」と呼称しているものは、単に「一過性の現象のこと」を指して言っているだけのことで、分子・原子・中性子・素粒子の単位では、瞬間、瞬間に生滅変化しているものであります。

 それは、もちろん、仏教用語で言うところの因縁生起《いんねんしょうき》(因縁・縁起)、因(直接原因)と縁(間接原因・条件)の二つの原因が、それぞれ関わり合って構成されているものであり、この因縁生起に従って生滅変化を繰り返し続けていることを、仏教の中でも特に大切な法理である「諸行無常《しょぎょうむじょう》」と言うのであります。

 読者の皆様方が、現在見ておられるこの施本の紙、ご用意して頂きました白紙の紙も、瞬間、瞬間で分子・原子・中性子・素粒子の単位で生滅変化を繰り返しているものであり、私たちは仮に、今のその存在における現象を「紙」と単に呼称しているに過ぎず、もっと仏教的に厳密に言えば、変化し続けているものには瞬間でさえも、そのものが「ある」とは言えないのであり、そのことを仏教では「諸法無我《しょほうむが》」の法理と言うわけであります。

 このように、私たちが言葉で普段使っている存在・現象への「名称」というものは、ほんの間、ただ私たちが仮に名付けているだけのものに過ぎないのであります。まずはこのことをしっかりと理解しておかなければなりません。

 前回施本「佛の道」では、私たち人間存在のことについて、色《しき》・受・想・行・識の五蘊《ごうん》で仮に和合しているものであるとして、その五蘊のいずれもが瞬間に変化し続けているため、どれが自分で、どれが自分のものだとすることも不可能であり、固定した実体としての「我」が成り立たないことを述べさせて頂きました。

 もちろん、全て私たちが呼称を与えている存在も、実は固定した実体としての「我」は同様に「無い」のであります。

 この「諸行無常」・「諸法無我」を理解していないと、私たちはその名称のものを「あるもの」として「我」を妄想してしまい、そこにほしいという渇愛《かつあい》、もっとほしいという執着が生じてしまって、そのものが少しでも変化したり、無くなり、滅したりすると、そのことを受け入れず、認めずに、それがそのまま迷い、苦しみになってしまうわけであります。

 このようにあらゆる存在、みずからの存在にでさえも「我」を妄想してしまって、「我執」を抱えてしまうことが、私たちの苦しみの原因であります。一切の存在は不安定であるために、「我執」、「妄想」によって「不満」が生じてしまっています。「妄執」・「我執」・「愛執」など、色々な執着をもたらす妄想のことを総称して「煩悩《ぼんのう》」と言いますが、このようにこの世におけるあらゆる存在・現象が不安定なことについて、諸行無常・諸法無我の真理を理解できないままに、悩み煩ってしまい、苦しむことを仏教では「一切皆苦《いっさいかいく》」という法理として表すのであります。 

 もちろん、なぜこの世における存在が、不安定なのかと言いますと、私は宇宙物理学の専門家ではありませんので、あまり詳しく述べることはできませんが、宇宙の始まりに起因していると言えます。

 宇宙の始まりでは、無の(量子論的)空間にゆらぎが生じ、無の空間のバランスが崩れ、物質と反物質の対発生と対消滅にアンバランスさが生じたことによって、ビッグバンが起り、宇宙が始まったと現在のところ言われています。

 本来は、物質と反物質の対発生と対消滅にアンバランスさが無ければ、今日の宇宙にあるような様々な物質も現象も、実は何もなかったのであります。その宇宙誕生のアンバランスさから、今でも、分子・原子・中性子・素粒子の単位でもめまぐるしく引っ付いたり離れたり、エネルギーとなって消滅したりしている中にあるのであります。しかし、ここであまりそのことを扱いますと話が相当に脱線してしまいますので、最終的には宇宙物理学・量子物理学による更なる解明を待ってみましょう。

 とにかく、私たちの苦しみの原因は、あらゆる現象・存在の無常という不安定さによって、何とかしてでも、それを安定させよう、変化を止めよう、永遠なものにしよう、永久に変わらないものにしようとして、渇愛・執着してしまうところに生じているのであります。

 そして、諸行無常・諸法無我・一切皆苦の法理をしっかりと理解することによって、迷い苦しみの原因となる煩悩を滅して、安らかな悟りの境地を得ることを「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」と表し、これら四つの法理を仏教の基本法理として「四法印《しほういん》」と言うのであります。

 さて、話を「紙」に戻しましょう。今そこにある「紙」について、色や形状が変わったりすることが、それぞれの眼に見えようが見えまいが、分かろうが分かりえないかは全く関係なく、実は瞬間、瞬間に因縁生起によって変化しています。

 そのために、「これがこの紙」といくらその紙の「我」を探しても本当は、どこにも見当たらないのであります。その「紙」についての我執に囚われてしまうと、僅かな変化でさえも受け入れず、認めなくなってしまうことになり、不満、苦しみを抱えてしまうのであります。そのため、この「紙」と呼んでいるものは、永遠なるもの、永久なるものではない、常に変化しているものであるのだと、しっかりと理解しておけば、多少変わっていっても、滅していっても全く妄想、煩悩、苦しみは生じないのであります。もちろん、全ての存在、己自身でさえにおいても、このことは同様なのであります。

 さて、まずは、この「一枚の紙」で仏教の四法印について、私なりに簡単に説明させて頂きました。四法印、更に苦しみを無くす上で大切な教説である「四聖諦《しせいたい》」(苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦)、八正道の詳しい説明につきましては、施本「佛の道」をご参照頂ければ幸いでございます。


 目次

 章

 一、はじめに



 三、一枚の紙から・@而二不二《ににふに》

 四、唯識論について

 五、一枚の紙から・A而二不二《ににふに》

 六、一枚の半紙から・補足余談

 七、悩み・苦しみを超えて

 八、最後に


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