施本 「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
 
ホームページ公開日 平成20年1月28日   執筆完了日 平成20年1月21日

施本発行 平成20年2月21日

著者 川口 英俊
 
五、一枚の紙から・A而二不二《ににふに》


 さて、ここで話を一枚の紙に戻しますが、私たちがいつも分別しているものは、虚妄であり、分別は無い、つまり、「二なるものが無い」ということで、二つに分別しているものは、実は二つでは無い、つまり「而二不二」の理解に及んでくるわけでありますが、このことを「一枚の紙」で改めて考えてみたいと思います。

 まず私たちは、「我・主体・主観」によって様々に認識・判断した存在に対して「名称」を付けています。

 皆さんの目の前にあるもの、鉛筆・ペン・パソコン・テレビ・本など何でもいいでしょう、それをその紙に書いて下さい。

 では、まずは鉛筆・ペンなどと書かれた文字のモノについてでありますが、第二章でも述べさせて頂きましたように、そのものには諸行無常・諸法無我なる中で固定した実体としての「我」は無いため、そのモノは常にあるものではありません。例えば、その鉛筆・ペンが百万年後にもありますかと問うと、特殊保存していない限りは、誰もがもう無いと答えることでありましょう。もちろん無常なる中、そのモノを構成している分子・原子・中性子・素粒子は因縁生起によって生滅変化を繰り返しているため、瞬間においてさえも刻々と無くなっていってしまっています。ですから、私たちが存在に対して名称を与えているのは、あくまでも変化しているモノについて私たちが仮に与えた名称なのであります。このことを唯識論では「仮名《けみょう》」と言います。書いたそのモノは、単に仮にそう名称しているにすぎないものであるため、本当のそのモノ、存在の対象について、実は言葉・文字では表すことができないのであります。ですから、書いた文字の存在対象は「無い」のでありますが、そのことが分からずに存在対象、我があるとして執着してしまうことを「遍計所執性《へんげしょしゅうしょう》」と言うわけであります。

 次に、「表と裏」をどちらか決めて下さいと言うと、ある人は書いた文字のある方が表、文字の無い方を裏として、ある人は、その逆としても分別することでありましょう。表裏の分別が生じ、または、文字のある方、無い方という有無の分別も生じます。

 本当は表も裏もどちらがどちらとは言え無いのですが、「我・主体・主観」によって、こちらが表、こちらが裏というように、それぞれの我によって勝手な分別が生じてしまいます。

 もちろん、表と裏を我によって分別したのは、単に虚妄で、本当はどちらがどちらとは言え無い、やはりただの一枚の紙であって、「分別した二なるもの」は、「二つで無い」一枚の紙で、つまり「而二不二」なのであります。

 また、表、裏と分別したとしても、実はその中間についても、もちろん無視することはできません。例えば、皆さんの手元にあるその一枚の紙では、表でも裏でもない一ミリメートルにも満たない「厚さ」の部分があります。このように本当のところ、二項対立・二元対立は極端に分別することはできず、必ずその間もあるわけであります。白と黒では間に灰色があるように、パッといきなり対立が分かれてあるのではなくて、二項対立・二元対立は、実は対立関係にあるものではなく、ただ縁起空の連続について、ただ仮に「我」によって、そのようになってしまっているだけなのであります。

 つまり、ただ連続している縁起空があるだけなのに、ある一点に「我」と「執着」が生じてしまうと、そこを基準として囚われて虚妄分別が始まり、これが私、それがあなたに始まって、これが表、その逆が裏、これが楽、ではその逆が苦、これが正、その逆が邪というようになってしまうのであります。

 このように極端な側には立たずに、分別してしまったことでも、その中間に立ってみて、今一度、妄想・虚妄で分別したものが、実は一つのものであることに気付いていけるようにしていけば良いと思います。そうすると、二項対立・二元対立は矛盾しているものではないと分かって苦しむことも無くなるでしょう。

 ただし、最終的には、その中間でさえも「空(縁起空)」ということで、中間ですらも無いのだということも理解できるようにしていかなければならないのであります。

 このように、皆さんに用意して頂いた紙で、書いた文字のモノも、書いたその文字、その書いた文字の紙、その紙について表だ裏だと虚妄分別してしまったことも、更には書いた己でさえも、ただ「縁起空」で、実は「無い」のであります。あらゆるものは、因縁生起という他に依存して、他によって生起しているということで、このことを依他起性と言うわけであります。

 また、禅語に「万法帰一《まんぽうきいつ》」という言葉がありますが、あらゆる全ては「縁起空」ただそれのみに帰するのだと考えることができます。

 そのことのあるがままを理解するためにも、「我・主体・主観」など自我に執着している自我意識、我執を無くして、自他分別を無くし、更に虚妄分別を無くして、この世のあらゆるものを平等に、実相のそのままを観じ察するようにしていかなければならないのであります。

 さて、これまで考察して参りましたように、虚妄分別したものには、実は分別は無い、ただあらゆるものは、空(縁起空)・真如のみということを円成実性と言うわけであります。

 簡単に述べると、この世におけることで分別は無い、できないということを「而二不二」と言うわけですが、唯識論では、「不即不離」「不一不異」と表されたり、般若心経では「不生不滅」・「不垢不浄」・「不増不減」と言う表現で出てきていますし、同様に「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」とも表現することもあります。また、このことは、鈴木大拙氏・「即非の論理」、更には西田幾多郎氏・「絶対矛盾的自己同一」にも通じるところではないかと考えております。

 しかし、これらのことは理解するに際して、やはり十分なる仏法の真理についての思慮・考察、仏道修行の前提が必要になるものと考えております。

 また、これらの言葉を使って、分別の無いことを示しているつもりであっても、実はそれでさえも「無分別を分別」しているに過ぎず、本当のところはもう言葉では表現できないのであります。

 ですから「不○不×」や「○即×」という表現は、実はできない、表現していてもやむを得ずに、仕方なくそうしているだけであるというのが、正直なところであります。ではそれを、誠に不十分で僭越なことながらも、最大限にこの本で表してみると試みれば、















































 となり、白紙の紙に、どちらが表でどちらが裏ですかと聞かれても、答えられないことに近いものと考えています。

 また、このことを仏教的に述べさせて頂くとすれば、維摩経《ゆいまぎょう》に記述されている維摩居士(架空の人物とされている)と文殊菩薩様とでやりとりされた不二法門《ふにほうもん》の問答における、最後に維摩居士の回答の「一黙」、つまり黙って何も語らなかったこと、と同意であるとして便宜上、白紙の部分をやむなくにも、そう理解して下さいませ。この維摩居士の一黙は、「維摩の一黙、雷の如し」と称されています。

 維摩経は、架空の物語とされていますが、維摩居士を主人公として、お釈迦様の十大弟子たちとのやりとり、文殊菩薩様とやりとりした問答などが主に記されています。大変に興味深い内容ですので、機会がありましたら是非、専門書・解説書をお読み下さいませ。

 さて、前回の施本でも述べさせて頂いておりましたように、あとは、それぞれにおける四法印・四聖諦の真理の真なる理解、八正道、戒・定・慧の三学、八大人覚《はちだいにんがく》(少欲・知足・楽寂静・勤精進・不忘念・修禅定・修智慧・不戯論)、五根五力(信・精進・念・定・慧)、七覚支《しちかくし》(念・択法《ちゃくほう》・精進・喜・軽安・定・捨)、六波羅蜜、更には六波羅蜜に「方便(間接的な方法で智慧を開発させること)・願(仏道の成就を誓願し、実践努力すること)・智(一切を見通す智慧を得ること)・力(善行を実践する力・真偽判別力を養うこと)」の四つも加えられた「十波羅蜜」などの確かなる学び・実践によってこそ、表現できないところのことも含めて真に正覚し、智慧を開発していかなければならないものであると考えております。共に精進努力して参りましょう。

 また、この浅学非才、未熟なる者のこの内容においてでも、少しでも読者の皆さんの迷い苦しみが無くなって、心が安らかに、清らかになって頂けたとすれば、誠に幸いでございます。


 目次

 章

 一、はじめに

 二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解

 三、一枚の紙から・@而二不二《ににふに》

 四、唯識論について


 六、一枚の半紙から・補足余談

 七、悩み・苦しみを超えて

 八、最後に


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