施本 「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
 
ホームページ公開日 平成20年1月28日   執筆完了日 平成20年1月21日

施本発行 平成20年2月21日


著者 川口 英俊
 
六、一枚の半紙から・補足余談


 さて、少し話を身近なところに戻してみたいと思います。私は現在、書道を習いに教室に通っていますが、習い始めた頃、普通に文房具店で市販されている一枚一〜二円ほどの半紙で練習していた時に、先生から、「その紙では裏のザラザラの部分で書きなさい」と指導を受けて、当初はかなりそのことに抵抗がありました。

 なぜなら、これまで、半紙はツルツルの部分が表で、そこに書くことを当たり前と考えていたからであります。つまり、半紙に書くのは、ツルツルの部分が表で、ザラザラの部分は裏ということが、当然に正しいと思い込んでいたからであります。

 しかし、先生は、その半紙では、確かにツルツルの表で書くことで、綺麗に見せることができるが、筆が滑りやすいことと、その書かれた文字を見るだけでは、正確な筆遣いの技量をなかなか推し量ることができないということで、練習、正確な指導のためにも、その半紙では裏のザラザラの部分で書きなさいという趣旨で、そう言われたのでありました。

 そうこうしているうちに、しばらくして、練習・清書用共に、一枚五円ほどする半紙を常用することになりましたが、その時にようやく先の半紙でザラザラの裏で書いていたことについての抵抗が無くなったのであります。その半紙の表はまさに先の半紙の裏と同じような感じでの書き具合となり、また、作品として条幅などに書く半切などの紙も同様の書き具合だったからであります。なるほど、先生の指導は理にかなったことだったのかと改めて気づいたのであります。

 さて、この話題で何が言いたいのかといいますと、やはり「正しい」という思い込みであります。表と裏も単に思い込みで、こちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとしてしまって固執していたために、裏で書きなさいと言われたことで、抵抗が生じてしまったわけであります。また、もしも先生の言うことを聞いていなかったら、上達が遅れていたかもしれないということであります。

 このように、普段私たちが「正しい」としていることには、施本「佛の道」の中でも何度も出て参りましたフレーズ「主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素」、つまり「我」が大きく関係してしまっているということであります。

 仏教的に説明しますと、「諸法無我」において、諸行無常なる中、固定した実体としての「我」はどこにも無いのに、我に囚われてしまって「我執」してしまえば、主観・偏見・独り善がり・自己都合・自己満足などの恣意的要素が顔を出して、表・裏も勝手に世間の常識、自分の主観・偏見・都合でこちらが表で正しい、こちらが裏で正しいとして執着し、妄執して迷い苦しんでしまうことがあるのであります。本当はたった一枚の紙について、表も裏も私たちが勝手に恣意的に判断しているだけということでもあります。そういった虚妄分別、妄想はしっかりと捨てなければならないというわけであります。

 こういう何気ない日常のことでも、気を付けていると「諸法無我」の理解が及んでいくのであります。

 皆さんも普段の生活の中での「気づき」を常に大切にして、真理に一つ一つ目覚めていけるようにして参りましょう。


 目次

 章

 一、はじめに

 二、一枚の紙から・仏教の基本法理の理解

 三、一枚の紙から・@而二不二《ににふに》

 四、唯識論について

 五、一枚の紙から・A而二不二《ににふに》



 七、悩み・苦しみを超えて

 八、最後に


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