施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 二、仏教の基本法理・四法印の理解


 まずは、仏教の基本法理について改めて考えて参りましょう。四法印と呼称される「諸行無常《しょぎょうむじょう》」・「諸法無我《しょほうむが》」・「一切皆苦《いっさいかいく》」・「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」でございます。

 「諸行無常」とは、「この世のあらゆる全ての現象・存在は、移ろい変わりゆくもので、因縁生起(縁起)によって生滅変化を繰り返している、常ならずにある」ということであり、この世における現象・存在には、常住なるもの、永遠不変なるもの、永遠不滅なるものは、一切何もないということであります。

 次に「諸法無我」とは、諸行無常の法理を受けて、「この世のあらゆる全ての存在には、固定した実体としての我(自性)が無く、その存在のあり方は、絶えず他との因縁生起(縁起)によって成り立っており、「相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》」のありようで、固定した実体については、知りえないし、分かりえないものである」ということであります。

 もちろん、それがゆえに、この世の存在については、言葉では表すことができず、様々に私たちが存在に対して名付けている名称も、あくまでも「仮のもの」に過ぎないもので、本当のところ、そのものについては「ある」とは言えないものなのです。このことを「仮名《けみょう》」・「仮有《けう》」と言います。

 ここで「仮のもの」ということについて、詳しく述べてみましょう。「仮名《けみょう》」・「仮有《けう》」とは、私たちは、存在や事物について、一応は仮に名前をつけているものの、その本当のところは知りえないし、分かりえないものであるということです。

 このことについて、まずは物質について考えてみますと、物質は、分子・原子・電子・陽子・中性子・素粒子、更には宇宙空間の約八十五パーセントを占めていると言われている暗黒物質(ダークマター、ダークエネルギー)などがあり、この世界・宇宙は、それらによって構成されているとされますが、その真なる解明については、今のところ可能性としての解釈に終始しており、物理学・量子力学における「不確定性原理」が示したように、「物質の存在(位置と運動量〔質量×速度〕・時間とエネルギーを同時に正確に知ること)は原理的に証明・検証することができない」ということが明らかとなってしまっています。

 また、同じように数学基礎論における「不完全性定理」では、数学には、「証明する事もできないし、否定を証明する事もできない命題(いわゆる、パラドックス)が必ず存在し、正しいのに証明できない事が存在していること」、また、「矛盾しない事を数学自身が証明する事ができないこと」も明らかになり、数学についても、その限界が示されたように、この世界・宇宙の全てのことの解明、物質の本当のありようを私たちは知りえること、分かりえることが全くできていないのが現状であります。

 また、私たち人間存在につきましては、施本「佛の道」におきまして、五蘊仮和合《ごうんけわごう》のものとして説明させて頂きました。・・「五蘊とは、色《しき》・受・想・行・識で、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕、五蘊の場合では「意」は含まない場合もある)、想(表象・概念)、行(意志)、識(意識・認識)で、その五蘊が無常なる中、因縁によって仮に集合しているものが、私たち人間の存在であり、その五蘊も当然に移ろい変化する中にあって、決して永遠不変・常住なるものではなく、五蘊にも固定した実体たる「我」はないため、五蘊それぞれも「自分のもの」ではなく、もちろん何もつかめないし、執着できるものではありません。」・・として、その例についても簡単に挙げさせて頂きました。

 この六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕の感覚について、今回少し補完させて頂きますと、感覚というものも、その対象の存在については、「クオリア(現象的意識・質感・感覚質)」で把握しているものとして、いわゆる主観的な「イメージや感じ」でしか把握できていないということであり、また、この「クオリア」というものが、一体何であり、どのように生じているのか、物質との関連はどうであるのか、物理学上の位置づけはどうなるのか、その主観性とは何であるのか、一体どこに生じるのかなどは、脳科学・認知科学、物理学でも解明することができないかもしれないとされる難問中の難問であり、つまりこのことは、本当の「我・主体・主観」というもの、対象のそのものの「我」も、知りえないし、分かりえない、そのようなものであるという仏教の「諸法無我」のことを示しているのであります。

 以上のように、形而上学的と言えるような問題に近いことについては、私たちの思考・思慮・思惟、言語表現を伴う学問の限界があることについて考えてみました。

 もちろん、物質、クオリアなどの更なる解明、新たな発見があれば、前述のことについての修正が余儀なくされることになりますが、現在のところ、残念ながらもほとんどその解明はありえないことではないかと思われます。

 驚くのに、お釈迦様は、二千六百年あまり前に、既にこのことを悟られていたようであるということであります。

 話を少し戻して、更に、私たちは常に対象のものについて、同じようにそれらを感受しているように錯覚してしまっていますが、例えば眼で見ている対象のものも、本当は生まれてから死ぬまで、同じものを同じように私たちは見ることができないのであります。

 なぜならば、その対象のものについて、分かろうが、分かるまいが、当然に刹那で変化しているものであり、尚かつ、感受する側の神経、眼であれば視神経、そして、電気信号を脳に伝達する神経細胞(ニューロン)・シナプスでさえも、刹那に活動しており、エネルギーを消費し、老化、新陳代謝・生滅変化を繰り返しているため、厳密に言うと、見ているものも、同じ視神経・神経細胞・シナプスで把握しているわけではないのであります。

 このように、感受される対象の側も、眼・耳・鼻・舌・身において感受した側も、双方が刹那に変化し続けているため、私たちは同じものを見続けている、感受し続けていると考えることは、実はできないのであります。つまりそれは、刹那毎に全く違ったものを見ている、感受していると言っても過言ではないのであります。

 いずれにおいても、己も他も、その固定した実体については、知りえないし、分かりえないものでしかないのであります。

 ここで更に追記としまして、「時空論」についても扱いたいと思うのですが、このことについては、是非、「C点による時空論」〔URL:http://www016.upp.so-net.ne.jp/jikuron/ 〕の全文をご参照賜りましたらと考えております。今回はその内容につきまして、簡単に少しだけ引用させて頂きます。

 「・・空間は物質Aを考えることにより、2つに分割される。すなわち、物質Aと物質Aに非らざる空間非Aである。・・」

 「・・Aと非Aとを分けるものは存在しなければならない。Aと非Aとを分けるものがないとすると、Aと非Aとは混合してしまう。ここではAと非Aとを分割するものは存在するのである。・・」

 「・・それをB面と名づける。B面はAであり、同時に非Aである。Aと非AはこのB面により分割される。このB面は純粋な平面であり厚さは無い。B面は表面であると同時に裏面である。この矛盾したB面を認めざるを得ない。それなしには、空間は成立しないのである。・・」

 「・・素粒子をと言うか、物質A、B面を無限に分割してゆき、最終的には空間に位置のみ有するところの有と無との両方の性質を持った点にまで分割してゆきます。この有と無を両方の性質を持った点をC点と言い、これが矛盾そのものですが、総ての出発点です。・・」

 「・・宇宙はC点の集合である。C点は空間に一様に分布しているのではなく、あるところは密に、あるところは粗に変化に富んだ分布をしている。
 C点は又、エネルギーを持っている。そしてC点自身は体積を持たない点であるため、膨大な密度の、例えばこの宇宙全体の存在するC点総てであっても、そこに閉じ込めてしまうような超高密度のC点の集合も可能と思われるのである。・・」

 「・・C点は有と無と両方の性質を持つ・・」

 「・・時空の本質は矛盾であり、無限であるが、現象は流動して有限であるが矛盾はない。・・」・・引用ここまで。

 と、「時空」・「物質」における、言語表現を超えたところのありようについて、実に難解な考察内容となっていますが、この後の中論の考察、「非有非無の中道」、「非非有非非無としての戯論《けろん》の寂滅」、「不二、平等のありよう」についても通じるところがあるため、今回、取り上げさせて頂きました次第でございます。是非、本論を読まれました後にでも、この「C点による時空論」について、再び振り返って考えて頂ければとも思います。

 さて、現実の私たちは、あたかも存在について「有る」ものとして錯覚して、そこにとらわれてしまって、妄執・我執・愛執などの執着を抱えてしまい、悩み苦しむことになってしまっています。

 このことを仏教では「一切皆苦」と表します。一切皆苦の具体的内容につきましては、「四苦八苦」としてまとめられています。四苦八苦につきましては、施本「佛の道」にて詳しく取り上げておりますので、ご参照下さいませ。

 また、今回は、この一切皆苦につきましても、もう少し補足しておきたいと思います。

 私たちは常に物事・存在・現象に対して、分別して判断・認識しています。端的に述べますと主体と客体との分裂によって生じていることであります。このあたりのことは、前回の施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」でも詳しく取り上げました。

 もちろん諸法無我なる中においては、固定した実体としての「我」は無いため、当然に主体は成り立たず、そうなると客体も成り立たない、主客は、分けえないものとして不二であり、それぞれは、「知りえない、分かりえないもの」としての扱いにて「平等」となりますが、しかし、私たちはそのことを理解できずに、どうしても分別して物事・存在・現象を判断・認識してしまいますし、私たちが生きていく上においても当然にやむを得ないことでもあります。

 そのために、諸法無我であることによく気を付けていないと、思惟《しい》分別したことによって、必ず二項対立・二元対立の迷妄に陥り、そのどちらか一方にとらわれて、相反・相対矛盾に悩み苦しむこととなってしまいます。

 例えば、二項対立・二元対立は、「自と他」に始まって、「表と裏」・「有と無」・「明と暗」・「左と右」・「上と下」・「優と劣」・「男と女」・「勝と負」・「成功と失敗」・「理性と感情」・「愛と憎」・「生と死」・「楽と苦」・「正と邪」・「善と悪」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○には快・幸などの語が入る)」と色々と挙げられます。

 ここでは特に代表して「有・無」について述べますと、この世における存在は、これまでにも述べて参りましたように、諸法無我であり、知りえないし、分かりえないものであって、「有る」ものとも言えないし、また「無い」ものとも言えないにも拘わらず、そのどちらかにとらわれて、執着してしまい、私たちは苦しんでしまうということであります。

 重要なことは、二項対立・二元対立は、それぞれ、本当はそのどちらの側とも言えない、分かりえないものであるということであります。つまりどちらの側にも立つことができないのであって、更には元々分けることができない、分けえない、そういうものということであります。

 ですから、私たちが思考・思慮・思惟《しい》して、この世におけることを分別して相対判断・認識している以上は、必ず相対矛盾が生じてしまい、迷い苦しむことになります。

 ゆえに、私たちが生きていく上で、思考・思慮・思惟して判断・認識することを止めれない、止めない以上は、皮肉にも必然的に「一切皆苦」になってしまうというわけなのであります。

 最後に「涅槃寂静」とは、先の三法印と四諦(苦諦・集《じっ》諦・滅諦・道諦)の理解、八正道の実践により、煩悩を滅して、完全に迷い・苦しみが無くなり、静かで安らかなる清浄な心を保つことができるようになった状態のことであります。「四諦・八正道」の具体的内容につきましては、施本「佛の道」をご参照下さいませ。

 仏教の目標は、この涅槃寂静であります。確かなる涅槃へ向けて、それぞれ各々がしっかりと仏教の真理を学び、実践に精進努力を進めて参りましょう。



 


 一、はじめに



 三、空論・空仮中の三諦について

 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 五、而二不二《ににふに》・再考察

 六、無分別について・再考察

 七、生と死を超えて

 八、悩み苦しみを超えて

 九、慈悲喜捨の実践について

 十、諸法実相・真如について

十一、最後に




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