施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 八、悩み苦しみを超えて


 さて、これまで考察して参りましたように、私たちの悩み苦しみの原因は、主に思惟分別・虚妄《こもう》分別したことに、とらわれて執着してしまうことにあります。

 悩み苦しみを無くすためにも、今回は特に「縁起」の理解が大切となります。

 もちろん、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」のあり方は、実に難解であり、第五章にて「火と薪のありよう」、「明と暗とのありよう」についてそれぞれ考えましたように、分別してしまうと、相互対立・相対矛盾に苦しむことになるわけです。

 次にこのことを更に具体的に現在の人類社会について当てはめて考えてみますと、より鮮明になると思います。

 まずは、自然と人類との関係について考えてみましょう。思惟分別した相対矛盾の中、いずれかの肯定が始まると、やがてそれが一方の否定へと繋がり、一方の肯定がそのまま進行していけば、最終的に相互否定になってしまうというありようについてであります。

 自然と人類の両者は不二として、この地球上にて存在しています。

 この場合における自然の肯定というものは、天災、いわゆる気候変動・地殻変動、巨大火山・巨大地震、台風・ハリケーン・竜巻、外的要因としての隕石衝突、太陽風・磁力線・紫外線の増大などを挙げることができます。

 自然の肯定進行は、私たち生命を脅かすものであります。太古の地球上においても繁栄を極めていた恐竜の絶滅などが、それに当たると言えるでしょう。しかし、このことはあくまでも、人類・人間の都合・価値観・自己満足・独善的観点から見てのことであり、自然は自然であるがままであるため、正確には、自然摂理(宇宙原理)が(分別したものと相互)否定へと至って、消滅すると考えることは、やや早計でありましょう。

 つまり、自然摂理(宇宙原理)は、特に人類が存在していようが、いまいが、それは何ら関係なく縁起なる無常の中、移ろい変わりゆくということであります。

 要するに人類の自然に対する関係は、一方的な依存関係でしかないということであります。ですから、実は不二の関係にないとも言えるわけであります。

 どういうことかと言いますと、自然が無ければ人類は存在しえないが、人類がいなければ自然が存在しえないわけではないのであります。人類の有無に拘わらず、宇宙は宇宙のあるがまま、自然は自然のあるがままだということであります。

 また、自然を生命が暮らせるような環境としても、このことは同様であり、しかし、それも宇宙原理的には、数十億年後、数百億年後には、地球も太陽もやがては燃え尽きて宇宙の塵となり、当然に終焉してしまうことについても、しっかりと理解しておかなければなりません。

 では、次に人類の肯定進行について考えてみましょう。いわゆる自然環境破壊の問題についてであります。

 人類が人類として、それぞれの人間が人間として、その存在について、固定した実体として捉えて、その存在を肯定する方向(開発・発展・繁栄、自然支配)へと進めていくと、皮肉にも、食糧・天然資源・化石燃料の貪り、公害・環境破壊、地球温暖化という、己の存在する前提となっている自然・生態系そのものの否定へと繋がってしまいます。

 やがて、この場合の人類・人間における肯定が進行していくと、自然破壊・環境破壊の結果を強めていき、食糧としての動植物の減少・絶滅、天然資源・化石燃料の枯渇などを余儀なくされ、人類・人間の存在そのものが危うくなり、自己否定に繋がってしまうのであります。

 つまり、自然と人類は、一応は不二として相互肯定の関係でうまく調和を保っていたものが、いつしか人類文明の発展・繁栄という一方の肯定進行(この場合は特に人類の側における肯定進行のみ)によって、最後には相互(特に人類の側の自己)否定という結果になってしまうわけであります。

 残念ながらも人類は現在、自己否定の道を歩み続けていると言えます。自然破壊・環境破壊は、自分で自分の首を絞めつつあるという「人災」と言っても過言ではない、皮肉な状態となってしまっています。

 次に戦争について考えてみましょう。

 戦争は、主に資源の奪い合いが原因となっていますが、国・民族、体制・主義・思想・宗教を実体化させて肯定させて(開発・発展・繁栄)いこうとすればするほど、当然に、国土・資源・労働力、体制・主義・思想・宗教の維持拡大が必要となって参ります。

 また、国や民族、体制・主義・思想・宗教という実体のない(概念的な)ものをまとめていくためには、「明と暗のありよう」の考察で述べましたように、相反するものを周りに設けて、自己をきわだたせていかなければなりません。

 そのために、相対する国や民族、体制・主義・思想・宗教を持つ敵を作っていき、やがて、更に肯定を進行させようとして、侵略・支配(他への否定)が始まるわけであります。

 しかし、更に国・民族、体制・主義・思想・宗教という実体のない(概念的なもの)をきわだたせようと敵を増やし続けて、侵略・支配していけば(肯定の進行)、やがてはその他の多くの周りが敵となって、その内に敗北していくことになったり、内部矛盾による崩壊などからも自己否定へと繋がってしまうようになります。このことは歴史上においても多々見られてきたことであります。

 更に、人類間の世界・国・自治体・社会・地域における様々な営みは、相互肯定的に成り立っている存在であるのに、戦争は、大きな意味でも小さな意味でも人類間の相互否定に繋がることも行われていくこととなります。

 大きな意味では、「軍拡・兵器開発」・「核兵器開発」を挙げることができます。特に核開発における核兵器は、やがて全人類を何度も死滅させうるだけの量を世界が保有することとなったため、もしも全面核戦争が起こってしまえば、一瞬で人類そのものの完全否定となるところまで進んでしまいました。

 シカゴ大学にある、核戦争による人類の滅亡を「世の終わり」(終末)として、その終末(午前零時に設定)までの残り時間を象徴的に示す時計である「世界終末時計」は、現在のところ「五分前」まで針が進んでしまっています。二○○七年には、環境破壊(地球温暖化など)による人類滅亡をも考慮されることになりました。

 もしも核兵器による大戦争が起こってしまえば、または、エネルギー開発の結果として、その便利さの恩恵の一方で、多大なリスクを抱えてしまっている原子力発電所の大規模事故災害が生じてしまえば、そこに住む人間のみならず、あらゆる生命をも死滅させてしまうことにもなり、更に何百年、何千年、何万年にもわたって、放射能の影響を受けて苦しむことになってしまうのであります。生命が存続していくための自然環境にも壊滅的なダメージを与えてしまうため、まさに完全なる自然と人類との相互否定になってしまうわけであります。

 もちろん、第二次世界大戦末期に、アメリカによって日本に投下された原子爆弾による破壊の凄まじさ、惨劇を目の当たりにした人類は、自らの産み出してしまったものに対しての恐ろしさ、愚かさ(相互否定に繋がるもの)にも大いに気づき、その後の反核運動、平和運動にも繋がっていったわけであります。

 原子力発電についても、チェルノブイリ原子力発電所の大事故がもたらした惨劇・悲劇の反省から、その諸刃の剣の扱い方について、より慎重さが求められるようになりました。

 また、もう少し身近な話題としましては、様々な犯罪についても同様に、個人・仲間・団体のエゴ(自我)・エゴイズム(利己主義)・自己中心的な言動が強まってしまう(自己肯定の進行)と、より一層、他との相対矛盾、対立関係に陥って苦しむことになり、更に自己肯定の進行が進んでしまえば、他への攻撃、殺傷・強盗事件などを起こしてしまい(他への否定の進行)、それはやがて復讐・報復などによる身の破滅を招いたり、禁固・懲役・死刑・解散などの罰を受けることにもなったりと、自己否定へと繋がっていくことになるのであります。

 このように、人類・人間・民族・個人・仲間・団体・国などが、独善的自己満足の便利さ豊かさを求めて、開発・発展・繁栄のために、エゴ(自我)・エゴイズム(利己主義)をあまりに押し出してしまう(自己肯定の進行)と、それはやがて自己否定へと向かってしまうことについて、何事をするにしても事前に私たちはしっかり自覚しておかなければならないのであります。

 同じようなことは、生命倫理に係わる遺伝子操作や遺伝子組み換え、ヒトクローン研究などについても言えることであります。

 以上、考えて参りましたように、これらの人類の抱えている悩み、苦しみの根源は、本当は実体のない、知りえない、分かりえない「我」へのとらわれ、執着がもたらしてしまっているのであります。

 それがゆえに、今一度、「諸法無我」の法理の理解を行っていかなければならないのであります。その補完として、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の理解を進めることが、実に重要で大切なことにもなるのであります。

 諸行無常、諸法無我、縁起のありようの理解が進んでいけば、当然に「煩悩」も滅されていくことになります。

 煩悩は数多くありますが、特に根本煩悩・三毒として「貪欲《とんよく》(むさぼり)・瞋恚《しんに》(激しい怒り)・愚痴《ぐち》(おろかさ)」が挙げられます。

 貪欲は、特に人間活動における衣・食・住において、本能的生存欲求を超えて、必要以上にまでむさぼるということですが、満足できる、欲を満たしてくれる固定した実体としての自分という「我」、対象の「我」があるとして、迷妄の中、追い求めて執着することから生じてしまっています。

 つまり、「四苦八苦」の中における、「求めても求めても得ることができない」という苦しみ、「求不得苦《ぐふとっく》」であります。主には所有欲になります。

 もちろん、所有できるものが「有る」とする迷妄について、中論では、「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』とあるように、無くさなければならないもので、「本来無一物」のことであります。

 これも、「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」を理解し、自分の「我」、対象の「我」も互いに、実体のない、知りえない、分かりえないものとして理解できれば、むさぼりも自ずと無くなり、必要以上に何かを求めても意味がない、価値がないもので、むしろ余計な苦しみが付き従うだけであると気づいて、悩み苦しみを無くさなければならないのであります。

 このことは、施本「佛の道」・第十章・無執着におきましても、・・「人間は、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力など様々なものに対して、あまりに渇愛・執着が生じてしまうと、次第にそれらに束縛されて、やがてはそれらがその人間を支配してしまうまでに蝕み続け、様々な苦しみが付き従って離れないようになってしまいます。そのようなまま、あまりに離れないようにまでがんじがらめにしてしまうと、やがて最後に不満・不安・心配・絶望・恐怖などの悪い感情を抱えて極限の苦しみの中で死を迎えることになるので注意が必要になります。

 ・・とにかく、皮肉にも世間では喜んで手に入れようと必死になっている執着・束縛対象、無常・無我・苦を知らないうちに抱えてしまった苦しみの原因となる執着・束縛対象、財産(お金・土地・モノ)、恋人、伴侶、家族、親族、仲間、見栄、名誉、地位、権力などは、これからできる限りに無常・無我・苦をしっかりと念頭においた上で、その接し方、心構え、扱いについて気をつける、また、必要最低限以上におけるものは離していきながら、執着せずに苦しみを少しでも無くしていくことが望ましいのであります。いつまでも愚かに自ら好んで苦しみの原因を、何ももうこれ以上作る必要は全くありません。」・・と述べさせて頂きましたように、悩み苦しみを無くしていくためには、「少欲知足」の実践が大切なことになるのであります。

 次に、瞋恚でありますが、激しい怒りが起こるのは、自分にとって気に入らないこと、自分の思考・主張・思想・主義と反する言動を受けることなどから不満が生じるのが、主な原因ですが、なぜ不満になるのかが分からないために、怒ってしまうわけであります。

 これも、貪欲と同様に満足できる、欲を満たしてくれる固定した実体としての自分の「我」、対象の「我」があるとして、それらに執着してしまうことから生じるわけであります。「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」が理解できれば、瞋恚の苦しみも自然に無くなるわけであります。

 最後に愚痴、おろかさですが、愚痴は無知、無明とも言われることがあり、真理について知っていない、真理に明らかでない、真理に暗いことであります。

 これは、まさに苦しみ、迷い、煩悩の根源でもありますが、これも原因は、「無常」、「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」を知らないことによって生じてしまうわけであります。

 特には、「四諦・八正道」についての学び、理解と実践を進めていくことによって、愚痴は徐々に無くなっていくようになるわけであります。この浅学非才、未熟者の施本からの学びにおいてでも、愚痴が少しずつ無くなっていけば、誠に幸いでございます。

 また、貪欲・瞋恚・愚痴は、思惟分別するところによっても生じてしまいます。貪欲・瞋恚・愚痴を無くしていくためには、しっかりと「無分別」の理解も進めていかなければならないのであります。

 このように、その他、多くの煩悩も、諸行無常、諸法無我、縁起のありようの理解が進めば、自ずと無くなっていくわけであります。しっかりと学びを進めて実践に精進努力していかなければならないのであります。

 施本「佛の道」・第十七章・煩悩への対処におきましては、・・「なかなかに煩悩は無くならず次から次に生じてくる、でもその煩悩を相手にせずに、その煩悩から出てくる「我」・「渇愛」・「妄想」などに執着をせずに、ほったらかしにしておくことで「煩悩」を離しておけば、生じてくる煩悩について、ついつい無理に「無くさなければ」、「無くさないと」と考えなくても済むようになります。

 煩悩が出てくれば、「ああ、また出てきたのか、こんにちは、でも、さようなら」としておくのであります。そうすれば、様々な煩悩もすぐに生じては滅する無常なる中、あっという間に過ぎ去っていきます。囚われてしまうと苦しみになりますので、それだけは気をつけておかなければいけません。・・煩悩・執着物・所有物・束縛物が生じるのはやむを得ないとして、すぐにさようならをしておくことで、苦しみを無くすようにしてみましょう。多少はまだまだそれらに囚われるのは仕方のないことですが、さようならをするために掛かる時間を徐々に短くしていき、やがては生じたその瞬間にしっかりとさようならをしていけるようになれば、それで苦しみの無い、涅槃になると言えるのではないかと思います。」・・と述べさせて頂いておりますが、今回、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」のあり方から再び考えますと、「こんにちは、さようなら」とするだけでなく、「こんにちは、『ありがとう』、さようなら」と、生かされて生きているという感謝の意の『ありがとう』を追加したいと存じます。

 あらゆるものの生滅変化について、差別《しゃべつ》なく、平等に、「こんにちは、『ありがとう』、さようなら」と常に思えるように、またその実践も調えていければ、悩み苦しみを超えることができるのではないかと考えております。



 


 一、はじめに

 二、仏教の基本法理・四法印の理解

 三、空論・空仮中の三諦について

 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 五、而二不二《ににふに》・再考察

 六、無分別について・再考察

 七、生と死を超えて



 九、慈悲喜捨の実践について

 十、諸法実相・真如について

十一、最後に



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