施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 三、空論・空仮中の三諦について


 さて、いよいよ本論の具体的内容に入りますが、まずは、「中論」の示す「空仮《け》中の三諦」の「空」についてであります。

 原始仏典の一つ「ウダーナヴァルガ」にも、『「一切の形成されたものは空である」と明らかな智慧をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。』〔ブッダの真理のことば・感興のことば 中村元訳 岩波文庫〕とありますように、このことは、「一切皆空」・「諸法皆空」として表されます。また、同じく原始仏典の一つ「スッタニパータ」にも「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ。・・」〔ブッダのことば スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫〕とあります。

 この「空」の解釈につきましては、仏教史上においても様々に見解が分かれることがあり、空の解釈を虚無主義として捉えてしまったり、空の考察については、その難解さゆえに誤解が生じることもあって、退けられることも多々ありました。

 「空」につきましては、施本「佛の道」においては、あえて大きくは取り上げず、二ページ足らずにて触れた程度でありました。

 ・・「特に空論を教学的に体系化した龍樹《りゅうじゅ》が確立したのは、「縁起空」と呼ばれ、現象・存在は全て縁起(因縁)によって仮に設けられたものが空であるとして、二元論的に現象・存在に有があるということを前提として、その有に対しての否定における空を意味するものではなく、この場合の「空」は、本来的に否定を受ける有すらないという意味での空というものであります。

 また、縁起そのものが空であり、現象・存在において他に空でないものはなく、他に縁起でないものもないという意味での空でもあります。

 この縁起空は、諸法無我だけでなく、中道を示すものの補完でもあると考えられます。

 何ら偏りの無い、何ら差別の無い、何ら囚われの無い立場で、ただ縁起をあるがままに受け入れて認めて、そこには苦も無く、楽も無く、非苦非楽も無い、上も下も、右も左もその中間も無い、当然に我もなく、執着できるものも無く、所有できるものも無く、意味や価値などももちろん無いのであります。

 縁起空は、無自性が空であるとして、始めから我は無く、始めから執着をするものは無く、始めから何も捨てるものすら無く、始めから何も価値が無いという、完全な無我、無執着・無所有・無価値などの理解によって、煩悩・苦しみを滅するために説かれたと解するのが妥当ではないだろうかと考えています。」・・

 これを振り返りますと、やや虚無主義的傾向が強いと解釈されてもある程度仕方がない内容となってしまっているように思います。今回の施本では、この「空」につきまして改めまして考察を深めて参りましょう。

 さて、空の理論につきまして、教学的に体系化したのが、龍樹《りゅうじゅ》(ナーガールジュナ)であります。

 龍樹は、初期大乗仏教の確立に多大な影響を与えたインドの僧侶であります。特に八宗(大乗仏教の宗旨・宗派の総称)の祖として、「龍樹菩薩」と呼称されてもいます。

 主な著作「中論」において、「空仮《け》中の三諦」を示し、龍樹の空論は、その後のインド大乗仏教の二大潮流の一つ、中観《ちゅうがん》派を支える根本理論となりました。余談ながら、そのインド大乗仏教二大潮流のうちのもう一つが、前作の施本におきましてご紹介させて頂きました「唯識論」を扱う「唯識派」(瑜伽行唯識学派《ゆがぎょうゆいしきがくは》)であります。

 さて、「中論」におきましては、「空仮中の三諦」が説かれるわけでありますが、まずその三諦を示した偈が、「観四諦品」(第二十四・第十八偈)『およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。』であります。

 実は、古来より、この偈の解釈の難解さが、空の理解の難解さともなっている要因だと言われています。

 つまり、「空」・「仮名《けみょう》」・「中道」がそれぞれ異なった諦(真理)であるのか、それとも同義のものであるのかという論争であり、また、お釈迦様が「四諦・八正道」においてお説きになった中道について、「非有非空の中道」と「非有非無の中道」のどちらか、というものであります。

 三諦を、それぞれ異なった真理とする解釈では、空も仮名に過ぎず、空を何か実体的に捉えてしまうことも避けて、空を空じて、そのことを中道と解したわけであります。つまり、この世の存在については、「仮名」がゆえに「有る」とは言えない「空」なるものであり、「非有」として、そして、その空についても「空」なるものとして「非空」とし、そのことが中道であるとしたわけであります。

 この中道についての「空」の二重否定が、ややもすると虚無主義的に扱うことに繋がってしまったとも言えるわけであります。

 前回施本の唯識論・三性の論考における「依他起性」の私の解説の中で、後に削除訂正させて頂くこととなりましたが、「無存在」という言葉が出てきてしまったのも、やや虚無主義的傾向が、どこか自身にもあったようであり、誠に反省致しております。

 また、その後の内容においても文中に出て参ります「無い」という表現につきましても、虚無主義的傾向が少し出てしまっていたようにも思います。

 このことがあって、中論の学びを改めて進める機会を得たわけでありまして、今回の施本を執筆させて頂きました次第でもあります。

 このことは、「縁起」についての理解も改めて行うことにもなりました。具体的には後の内容をご参考頂ければと思います。

 また、既に気づかれたかもしれませんが、今回の「諸法無我」の説明におきましては、「この世のあらゆる全ての存在には、固定した実体としての我(自性)が無く、その存在のあり方は、絶えず他との因縁生起(縁起)によって成り立っており、相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》であり、固定した実体は知りえないし、分かりえないものである」として、特に「固定した実体は知りえないし、分かりえないものである」と「有る」とも言えないし、「無い」とも言えないものとして、今回は虚無主義と解されるかもしれない危惧を避けさせて頂いております。

 このように、自身、前作において、「非有」としては、それなりに説明できていたものの、やや「非無」の方の扱いでは、虚無主義的なニュアンスに傾向していた違和感が残っていたということと、また、中道につきましても、施本「佛の道」における八正道・中道の解説におきまして、・・「上から見ても下から見ても、右から見ても左から見ても、中間から見ても、過去から見ても現在から見ても未来から見ても、どのようないかなる現象・存在から見ても、三界における全てから見ても、何ら偏りの無い、何ら差別《しゃべつ》の無い、何ら囚《とら》われの無い立場から認識・判断したものを、ようやくに「正しい」としなければならないのであります。このような立場のことを「中道《ちゅうどう》」と言います。」・・と述べさせて頂きましたが、今から振り返りますと、やや中途半端な観が否めない考察に終始してしまったことからも、その修正が、今回必要になった次第であります。

 改めて、中論についてじっくりと考察を行いました結果、縁起の相互依存的相関関係、相依性《そうえしょう》を出発点として、その縁起の説明として、同義に「空」・「仮」・「中」が表されたと解した方がよりすっきりと理解が及んできたわけであります。

 また、このことは龍樹の他の著書とされている「廻諍論《えじようろん》」の中において、「空」と「縁起」と「中道」が同義であるという記述からも、ほぼ間違いないのではないかと解せます。

 さて、一切皆苦の説明において補足させて頂きましたように、思惟分別における相対矛盾に苦しむことを避けるためにも、二項対立・二元対立のいずれの側にも立たず、「有る」ということと、「無い」ということの、その両極端を避けることが重要なことになります。

 これらのことから、三諦の「空」・「仮」・「中」は同義として、「非有非無の中道」を表したものであると考えて、ほぼ妥当ではないかと思います。

 このことは、中論における「観有無品」(第十五・第七偈〜第十一偈)『「カーティヤーヤナへの教え」において、「存在(もの・こと)」と「非存在(のもの・こと)」とを正しく知っている世尊によって、「有る」と「無い」という二つは、ともに否定された。』、『もしも〔或るものの〕有ということが本性としてあるとするならば、そのものには、無ということは、あり得ないであろう。なぜならば、本性〔そのもの〕が変異するということは、決して成り立たないのであるから。』、『もしも本性が現に無いとするならば、変異することは、何において、存在するであろうか。もしも本性が現に有るとするならば、変異することは、何において、存在するであろうか。』、『「有る」というのは、常住に執着する〔偏見〕である。「無い」というのは、断滅〔に執着する〕偏見である。それゆえ、聡明な人は、「有る」ということと「無い」ということとに、依拠してはならない。』、『なぜならば、およそ自性をもって存在するものが、「存在しないのではない」というならば、常住〔への偏見〕が、〔そして〕「以前には存在していたが、いまは存在しない」というならば、断滅〔への偏見〕が、誤りとして付随するからである。』と、これらにおける偈からも明らかであると考えます。

 以上から、お釈迦様の説かれた「縁起」というものについて、空の理論として龍樹によって補完され、それらから同義として派生している関連の比喩言語も、その一つとして解しても構わないのではないだろうかと思います。

 つまり、仏教の解説用語として様々に使われることがある比喩言語の中で、僭越ながらも私なりにカテゴリー別に分けてみますが、空のカテゴリーとして「無我、無自性、虚空、無自性空、縁起空」、仮のカテゴリーとしての「仮有、仮名、仮設、虚妄《こもう》、虚仮《こけ》、錯覚、幻《まぼろし》、幻覚、幻想、幻影、陽炎《かげろう》、逃げ水、蜃気楼、夢」、中のカテゴリーとしての「中道、非有非無、八不(不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不来・不去)、無記、無分別、而二不二、平等、煩悩即菩提、生死即涅槃」などの言語も、同義の言い換えであると解釈してもあながち間違いではないように思う次第でもあります。もちろんこのことは、更なる慎重な考察が必要であると考えております。

 そして、思惟分別における様々な二辺の両極端を離れて、そのどちらにもとらわれない、執着しない実践が、悩み苦しみを無くして、涅槃へと至る中道であるとして、その中道の実践をお釈迦様は「四諦・八正道」として説かれたのであります。

 ただ、読者の皆様の中には、この「四諦・八正道」における「八つの正しい道」、つまり「正しい」ということについて、「正・誤」・「正・邪」の分別に係わってしまうために、仏教の無分別的な視点からは、「正しい」ということへのとらわれ、偏見ではないのか、という疑問が多少生じてしまうかもしれません。このことにつきまして、次の章において詳しく扱いたいと思います。



 


 一、はじめに

 二、仏教の基本法理・四法印の理解



 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 五、而二不二《ににふに》・再考察

 六、無分別について・再考察

 七、生と死を超えて

 八、悩み苦しみを超えて

 九、慈悲喜捨の実践について

 十、諸法実相・真如について

十一、最後に





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