施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 九、慈悲喜捨の実践について


 とにかく、今回は、「空」と共に「相互依存的相関関係、相依性の縁起」についての論考が中心となっているわけでありますが、私たち人間は、本当に様々な恵みによって支えられているわけであります。

 普段はあまり気にも留めない「空気中の酸素」も、私たちは呼吸して、体にその酸素を取り込まないと生きていけなくなります。その酸素は、植物の光合成によって作られるわけですが、そのためには、もちろん、植物と、太陽光、水、二酸化炭素などが必要となり、水は主に、太陽の働きや地球の大気の働きによって海水が蒸発し、やがて雲となり、雨となって降って得られるものであり、二酸化炭素は、動植物の呼吸などによって生じています。または、火山活動・山火事などの自然活動からや、現在では残念ながら地球温暖化の主原因として、人間活動における化石燃料の消費からも大量に二酸化炭素が生じてしまっています。

 更に、植物の生長のためには、それぞれの植物に応じて、様々な養分も必要になるわけであります。その養分も、動物の排泄物・死骸をバクテリア・細菌が分解したものでありますし、また、植物が子孫を残すための受粉の媒介には、多くの動物(特に昆虫)が活躍して関わっています。

 このように、いわゆる食物連鎖・循環の生態系の中で、互いに関わり合って生存しているのであります。人間も様々な職業があってこそ社会の営みが成り立って、人が活動できているように、私たちは、この大いなる「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の中で過ごしています。

 もしも、人間だけの世界、動物だけの世界、植物だけの世界(それぞれの自己肯定の進行)では、この食物連鎖の関係が崩れてしまい、やがて、その一方の自己肯定の進行が続いてしまえば、結局は相互否定・自己否定に陥ってしまうのであります。つまり、人間、動物、植物だけの世界は、自然界においては成り立たないのであります。

 しかし、人間は、現在、強欲にも自然を支配しよう、思い通りにしようと、そのエゴ(自我)、エゴイズム(利己主義)を出してしまい、資源をむさぼり、自然環境を破壊し、生態系を狂わせつつありますが、それは、結局、人間の生存そのものを危うくさせてしまっているのであります。

 化石燃料をむさぼり、このまま消費しながら燃やし続けていけば、大気汚染、公害、酸性雨などの問題、温室効果ガスによる地球温暖化の諸問題が生じ、生態系の狂いによって、動植物の種の絶滅、ある意味で人為的に産み出されている強毒性ウイルスの脅威など、まさに人災とも言える自己否定の進行は、一層顕著になってしまいます。

 人類・人間は、速やかにこの愚かな所業に気づき、反省して、「生かされて生きている」という「相互依存的相関関係、相依性の縁起」を自覚して、感謝、報恩、慈悲喜捨の実践を行うようにしていかなければ、このままでは自己否定の進行が更に進んでしまうことを止めることができないのであります。

 もちろん、ここで、環境問題について、あまり考えすぎて、とらわれてもいけません。極端な偏見に陥ってしまえば、それは無・断滅への執着に繋がり、悲観主義・虚無主義に陥ってしまうからであります。

 例えば、人類が早めに絶滅して、地球上から完全にいなくなってしまった方が、資源のむさぼりもなくなり、無惨にも殺されて絶滅していく動植物の苦しみもなくなり、究極の自然環境保護、生態系保護になるというような極端な偏見を持ってしまえば、一気に自己完全否定へと向かってしまう恐れが生じてしまうからであります。ここでも「非有非無の中道」は、しっかりと担保し、極端にとらわれない、執着しないようにしておかなければならないのであります。

 そのためにも、「無常」、「無我」、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」をしっかりと理解した上で、人類存亡の危機を脱するためにも、「慈悲喜捨」を実践していかなければならないのであります。「慈悲喜捨」につきましては、施本「佛の道」においても扱わせて頂きました。

・・「慈《じ》・悲《ひ》・喜《き》・捨《しゃ》は、四無量心《しむりょうしん》とも言われるものであり、悪い感情を静めて心を清らかにし、また煩悩を無くしていくためにも、仏教においては大切な実践になります。

 慈は、慈しむ心のこと、または友情心のこと、悲は、憐(哀)れむ心のこと、喜は、一緒に喜ぶ心のこと、捨は、偏見や差別を捨てる心、または平等で落ち着いた平穏な心のことであります。

 慈悲と二語で表されることもあり、この場合、慈は、慈しむ心で楽を与えること、悲は、憐(哀)れむ心をもって苦を抜くことで、抜苦与楽《ばっくよらく》とも言われます。喜捨も二語で表されることがあり、我執、偏見、差別を捨てて、一切のものに対して平等の心を持ち、共に喜びを分かち合うことであります。

 四無量心は、あらゆる全てのものに対して変わらない平等の慈しみ、優しさを持つこと、一切皆苦の中で、あらゆるものが苦しんでいることを憐(哀)れみ、「我」を捨てて「無我」を自覚し、「我執」・「妄執」・「愛執」などの執着も捨てて、煩悩を滅し、苦しみから解脱した喜びを共に分かち合うために必要な心のあり方を示す重要なものであり、涅槃へと向かうために、このことを常に念じ、実践することが大切となります。」・・

 と、無分別、無差別《むしゃべつ》、不二の平等による慈悲喜捨の実践が求められるのであります。そうしない限り、私たちは、思惟分別・相対矛盾に悩み苦しみ続けながら、やがて、相互否定・自己否定への道を確実に歩んでしまうことになるのを覚悟しなければならないのであります。

 慈悲喜捨の実践を考える上で大切なことについて、「ブッダのことば・スッタニパータ 中村元訳 岩波文庫」、第一・蛇の章・八・慈しみ(一四三偈〜一五二偈)から引用しておきたいと思います。

『究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和《にゅうわ》で、思い上ることのない者であらねばならぬ。』

『足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。』

『他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏《あんのん》であれ、安楽であれ。』

『いかなる生物生類《いきものしょうるい》であっても、怯《おび》えているものでも強剛《きょうごう》なものでも、悉《ことごと》く、長いものでも、大きなものでも、中くらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大《そだい》なものでも、

目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでも、すでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。』

『何ぴとも他人を欺《あざむ》いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。』

『あたかも、母が己《おの》が独《ひと》り子を命を賭けても護《まも》るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の(慈しみの)こころを起すべし。』

『また全世界に対して無量の慈しみの意《こころ》を起すべし。
上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。』

『立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥《ふ》しつつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。』

『諸々の邪《よこし》まな見解にとらわれず、戒《いましめ》を保ち、見るはたらきを具《そな》えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。』・・

 まさにこの慈しみの実践こそが、悩み苦しみを無くして、私たちを幸せにし、心を清浄に保つ法なのであります。

 目に見えないどんな細菌・ウイルスたちであろうが、ミミズであろうが、ゴキブリであろうが、普段は気にも留めない雑草たちであろうが、どんな形・大きさの生き物であろうとも、みんな「相互依存的相関関係、相依性の縁起」の中、精一杯、一生懸命に頑張って生きています。人間の勝手な都合、自己中心的・独善的な利己主義において殺してよいものなど、この世には何一つもないのであります。

 「一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏《あんのん》であれ、安楽であれ。」として、何人といえども、いかなるものに対しても、生きていくためにやむなく犠牲にしてしまっているものたちに対しても、命を繋いでくれている恵みに深く感謝して、共生、共存、報恩の実践も忘れないようにしなければならないのであります。

 また、施本「佛の道」でも紹介させて頂きました「日本テーラワーダ仏教協会」さんの慈悲の瞑想の言葉もここに記しておきたいと思います。

慈悲の冥想

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願い事が叶えられますように
私に悟りの光が現れますように

私の親しい人々が幸せでありますように
私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい人々の願い事が叶えられますように
私の親しい人々に悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願い事が叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように

私の嫌いな人々も幸せでありますように
私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々の願い事が叶えられますように
私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように

私を嫌っている人々も幸せでありますように
私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている人々の願い事が叶えられますように
私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように

生きとし生けるものが幸せでありますように

                              慈悲の冥想ここまで

 たとえ少しずつでも、毎日継続して、慈悲喜捨の念と実践が行えるように、しっかりと調えて参りましょう。
 
 七仏通誡偈《しちぶつつうかいげ》

 「諸悪莫作《しょあくまくさ》
 衆善奉行《しゅうぜんぶぎょう》
 自浄其意《じじょうごい》
 是諸仏教《ぜしょぶっきょう》」

 「すべて悪しきことをなさず、善いことを行ない、自己の心を浄めること、--これが諸の仏の教えである。」(「ブッダの真理のことば 感興のことば」中村元訳 岩波文庫)

 仏教の真なる理解・実践によって、私たちそれぞれの迷い・苦しみを無くし、更に人類の抱えてしまっている迷い・苦しみも無くして、心の平安・安穏を得て、確かなる平和・幸福が訪れることを強く希求申し上げる次第でございます。誠に精進努力して参りましょう。


 


 一、はじめに

 二、仏教の基本法理・四法印の理解

 三、空論・空仮中の三諦について

 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 五、而二不二《ににふに》・再考察

 六、無分別について・再考察

 七、生と死を超えて

 八、悩み苦しみを超えて



 十、諸法実相・真如について

十一、最後に




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