施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 六、無分別について・再考察


 これまでも考察して参りましたように、「無分別」とは、この世におけることは、分別できないとして、相対矛盾の無くなったことを言うわけであります。このことは、前回施本、今回においても「而二不二」から考察しましたが、今回は「中論」からも補完して参りたいと思います。

 世間・世俗の中においては、「薬と毒」の関係で考えましたように、便宜上、人間の都合において認識・識別・判断するために、様々に思惟分別するのはやむをえないことでありますが、この「やむをえない」ということを理解して、本当はどちらがどちらともいえないもの、知りえないもの、分かりえないものであるということは、必ずどこか頭の片隅に置いておくことが、重要なことになるわけであります。

 このように理解しておけば、物事を進めていく上において、より慎重に、よりリスクを見極めて、使い方・扱い方、用法・容量も間違えずに、適切に世の中を過ごして、安心、安全に生きていけるように様々に対処することができるようになっていくわけですが、このことが「無分別の智慧」というものではないかと考えます。

 また、無分別を考える上の例えとしまして、人類が誕生する以前の地球、太陽系、宇宙のありよう、また、人類が先で絶滅した後の地球、太陽系、宇宙のありようを想像してみてはどうでしょうか?

 もちろん、そこでは思惟分別、相対矛盾が生じる余地は全くなくなります。自然、宇宙はそのまま、あるがままであり、この点で、無分別について想像することは、誠に容易ではないかと思います。

 ただ、このことが、「無・断滅」への偏見、執着となってしまってもいけませんが、人類の存在しなかった地球があったのは事実であり、また少し考えても数億年後にこの地球に人類が存在している確率は、ほとんどゼロに近いと考えても差し支えがないようにも思います。

 もちろん、このことは、私たちの存在が「有る」という前提での想像であり、非有非無なる中道から、このようなことを考えてしまうのは、世俗諦としての無分別の理解としては、参考になりますが、勝義諦(第一義諦)としては、戯論であり、おそらく沈黙せざるをえないようにも思います。つまり、「無分別の分別」に過ぎないということであります。

 まあ、現在、私たちが抱えている思惟分別による相対矛盾について、何という不毛なるくだらないことに、いつまでも悩み苦しみ続けているのかと、気づく上では大切な想像のギリギリの域ではないかとも思うわけであります。

 もちろん、このことで自暴自棄の悲観主義・虚無主義に陥ってもいけませんし、身の破滅へと繋がる快楽主義・享楽主義に陥ってしまってもいけません。「非有非無の中道」、「非苦非楽の中道」には、しっかりと気を付けておかなければならないと考えます。

 次に無分別の扱いについて、「知りえない、分かりえないもの」としてこれまでも述べて参りましたが、このことがつまり、空・仮・中の三諦の内の「仮」のことになります。

 三諦の色々な言い換えの言葉をカテゴリー別に分けた際に、「仮」については、「仮有、仮名、仮設、虚妄《こもう》、虚仮《こけ》、錯覚、幻《まぼろし》、幻覚、幻想、幻影、陽炎《かげろう》、逃げ水、蜃気楼、夢」としましたが、このことは、中論においても「観三相品」(第七・第三十五偈)『あたかも幻のように、あたかも夢のように、あたかも蜃気楼(ガンダルヴァ城)のように、生はそのようであり、住はそのようであり、滅はそのようである、と説明されている。』、「観顛倒品」(第二十三・第八偈)『いろかたち・音・味・触れられるもの・香り・「もの」は、たんにそれだけのものであり(固有の実体は無く)、蜃気楼(ガンダルヴァ城)のありかたをしており、陽炎や夢に似ている。』とあります。

 様々な教典の中にも「夢」や「幻」という表現は多く出て参りますが、日本でも古来より、この世のありよう、存在のありようについて、「夢」・「幻」と表現した偉人たちが数多くいました。代表的なものを挙げてみますと、

「露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢」・・豊臣秀吉辞世

「嬉しやと 再びさめて 一眠り 浮き世の夢は 暁の空」・・徳川家康辞世

「人間五十年 化天の内をくらぶれば 夢幻のごとくなり」・・幸若舞・『敦盛』一節・・織田信長

「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」・・上杉謙信辞世

「順逆二門に無し 大道心源に徹す 五十五年の夢 覚め来たれば 一元に帰す」・・明智光秀辞世

「夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす」・・柴田勝家辞世

「さらぬだに 打ぬる程も 夏の夜の 夢路をさそふ ほととぎすかな」・・お市の方辞世

「何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし」・・足利義政

「色は匂へど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ 有為の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひもせず」・・いろは歌

「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり 沙羅双樹の花の色 盛者必衰の理をあらわす おごれる人も久しからず ただ春の世の夢のごとし たけき者も遂には滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ」・・平家物語・冒頭

 などと挙げましたように、やや感傷的な面が強くあるものの、この世の存在・事象は「仮のもの」として、実体のない、または実体の分からない、知りえないもの、つかみどころのないものとして、「仮」のカテゴリーにあるような言葉が比喩表現として用いられてきたのであります。

 このことで「而二不二」についても改めて考えてみますと、確かに「二なるもの、両部なるもの」は、分けえない、本来は一つなるものであるというのは、つまり、二なるもの、両部なる分別も、お互いにその本当の実体は分からない、知りえないものとして、それでお互いに「幻」・「蜃気楼」のようなものとして一つである、ということであります。

 思惟分別にて分けてしまったものは、このような意味で、実は差別《しゃべつ》のない、「平等」であるということを示していると考えます。私もあなたも、私もこの世における全ての存在・事象も、もちろんこのような次第においての「平等」なわけであります。

 この点で、世間における「平等」の意味とはやや違って、仏教における「平等」というものは、無分別において、お互いにその本当の実体は分からない、知りえないものということでの「平等」であるということを理解しておかなければならないのであります。

 さて、無分別が迷い苦しみを無くす上で、重要になるわけですが、前回施本と同様に、「無分別の分別」についても改めて考えたいと思います。

 このことは、第四章とも関連することですが、いわゆる世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦として、「無分別」・「無分別の分別」が世俗諦として、「無分別の分別」を超えて言語表現が不可能となった領域の理解が勝義諦ということであります。

 つまり、「無分別の分別」の無分別ということで、「非非無」となり、戯論(形而上学的議論)が滅されるわけであります。

 戯論(形而上学的議論)が滅されることについては、施本「佛の道」におきましては、お釈迦様の「無記の沈黙」、前回の施本では、維摩経《ゆいまぎょう》の不二法門における「維摩居士の一黙」について述べさせて頂きました。

 このことは、オーストリアの哲学者、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、ひとは沈黙に任せるほかない」という、彼の論著・「論理哲学論考」の終章にもあるように、形而上学的問題を扱う上における哲学・論理学の限界についても示されています。

 先に物理学・量子力学・数学・脳科学・認知科学において示させて頂きました限界も併せて、形而上学的領域の問題には、もはや何者も沈黙せざるを得なくなるということであります。

 ・・「・・この世におけることで分別は無い、できないということを「而二不二」と言うわけですが、唯識論では、「不即不離」「不一不異」と表されたり、般若心経では「不生不滅」・「不垢不浄」・「不増不減」と言う表現で出てきていますし、同様に「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」とも表現することもあります。・・これらの言葉で、分別の無いことを示しているつもりであっても、実はそれでさえも「無分別を分別」しているに過ぎず、本当のところはもう言葉では表現できないのであります。

 ですから「不○不×」や「○即×」という表現は、実はできない、表現していてもやむを得ずに、仕方なくそうしているだけであるというのが、正直なところであります。」・・ということであります。

 このことは、中論・「観涅槃品」(第二十五・第十九偈・第二十偈)『輪廻(生死の世界)には、ニルヴァーナと、どのような区別も存在しない。ニルヴァーナには、輪廻と、どのような区別も存在しない。』、『およそ、ニルヴァーナの究極であるものは、〔そのまま〕輪廻の究極でもある。両者には、どのようなきわめて微細な間隙も、存在しない。』とありますように、いわゆる「煩悩即菩提《ぼだい》」、「生死即涅槃」のことを直接に表している偈でありますが、生死(迷い・煩悩)にも、涅槃(菩提・悟り)のいずれにも最後はとらわれて、執着してはならないということであります。

 これは、言い換えると「悟り・涅槃を得たい、迷い・煩悩・苦しみから脱したいという、双方へのとらわれ、執着が無くなった」、「執着をしないということにさえも、執着しなくなった」ということではないかと思われます。「煩悩即菩提《ぼだい》」・「生死即涅槃」、「不○不×」や「○即×」の無分別は、非常に勝義諦(第一義諦)に近いところにあると言えるのではないかと考えます。

 以上、見て参りましたように、無分別についても世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦からしっかりと考えておかなければならないのであります。



 


 一、はじめに

 二、仏教の基本法理・四法印の理解

 三、空論・空仮中の三諦について

 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 五、而二不二《ににふに》・再考察



 七、生と死を超えて

 八、悩み苦しみを超えて

 九、慈悲喜捨の実践について

 十、諸法実相・真如について

十一、最後に




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