施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 五、而二不二《ににふに》・再考察


 さて、「而二不二」につきましては、前作の主要論題として扱いましたが、今回、「中論」からも改めて考えて参りたいと思います。

 「而二不二」とは、両部不二とも言われますが、「二つにして、二つではない(一つのもの)」という意味であり、普通に考えると矛盾していて理解し難い言葉になってしまいますが、いわゆる「無分別」を表すもので、両部は確かにあるが、どちらがどちらとは決められない、またはどちらが何かとは言えない、どちらにもとらわれて執着することができない、ということであります。

 このことは、前作で一枚の紙についての表裏におけることからの考察を行って、説明させて頂きました。

 一枚の紙について、・・「本当は表も裏もどちらがどちらとは言え無いのですが、「我・主体・主観」によって、こちらが表、こちらが裏というように、それぞれの我によって勝手な分別が生じてしまいます。

 もちろん、表と裏を我によって分別したのは、単に虚妄で、本当はどちらがどちらとは言え無い、やはりただの一枚の紙であって、「分別した二なるもの」は、「二つで無い」一枚の紙で、つまり「而二不二」なのであります。

 また、表、裏と分別したとしても、実はその中間についても、もちろん無視することはできません。例えば、皆さんの手元にあるその一枚の紙では、表でも裏でもない一ミリメートルにも満たない「厚さ」の部分があります。このように本当のところ、二項対立・二元対立は極端に分別することはできず、必ずその間もあるわけであります。白と黒では間に灰色があるように、パッといきなり対立が分かれてあるのではなくて、二項対立・二元対立は、実は対立関係にあるものではなく、ただ縁起空の連続について、ただ仮に「我」によって、そのようになってしまっているだけなのであります。

 つまり、ただ連続している縁起空があるだけなのに、ある一点に「我」と「執着」が生じてしまうと、そこを基準として囚われて虚妄分別が始まり、これが私、それがあなたに始まって、これが表、その逆が裏、これが楽、ではその逆が苦、これが正、その逆が邪というようになってしまうのであります。

 このように極端な側には立たずに、分別してしまったことでも、その中間に立ってみて、今一度、妄想・虚妄で分別したものが、実は一つのものであることに気付いていけるように調えていければ良いと考えます。そうすると、二項対立・二元対立は矛盾しているものではないと分かって苦しむことも無くなるでしょう。

 ただし、最終的には、その中間でさえも「空(縁起空)」ということで、中間ですらも無いのだということも理解できるようにしていかなければならないのであります。」・・

 と書かせて頂いておりますが、最後の部分で「中間ですらも無い」としてしまいましたのは、やや虚無主義的傾向が強い記述と感じられても仕方がない表現となってしまっているため、その部分を今回改めて本論の趣旨から訂正してみますと、『「厚さ」の部分は「表でも裏でもある、また、表でも裏でもない」という「表裏・非表非裏の中間」になるわけですが、もちろん、最終的には、その中間ですらも、知りえないし、分かりえないもので、そこにとらわれてしまうこと、執着することからも離れなければならないのであります。』とすれば、よりこの場合における空の理解が及ぶのではないかと考えております。

 さて、更に、私たちはなぜ思惟分別してしまえば、それが虚妄分別となり、必ず相対矛盾に陥って、迷い苦しむことになるのかについても、今回の「縁起」のあり方としての「相互依存的相関関係、相依性」から考えてみたいと思います。

 様々な二項対立・二元対立、例えば「表と裏」・「男と女」・「愛と憎」・「生と死」・「楽と苦」・「善と悪」・「平和と戦争」・「破壊と創造」・「○と不○(○には快・幸などの語が入る)」と、たくさん挙げることができますが、それぞれ、単独の世界があり得るのかと言えば、表だけの紙は成り立たず、裏があっての表であり、明も明だけの世界では、明が成り立たないわけであり、暗があってこそ、明は明として、その存在が認識・判断されるわけであります。

 同様に、男と女も、どちらか一方の単独の世界としてしまえば、当然に子どもができないため、その(人類の)存在は成り立たなくなってしまうわけであります。

 つまり、二項対立・二元対立、双方いずれも、その一方の単独する世界は成り立たないですし、一方を否定してしまっても同様なわけであります。

 このように互いに「相互依存的相関関係、相依性」の無分別・不二・平等でなければ、この世界は成り立っていないということであります。

 このため、二項対立・二元対立の両辺のいずれにも偏らずに、その相対を超克しなければならないというのが、この世で過ごす上では大切なことになるわけであります。

 このことを理解するためにも、その両辺を避けたところ、例えば一枚の紙では、「表でも裏でもあって、表でも裏でも無い」という厚さの部分、いわゆる「非有非無、非○非×の中道・空・縁起」を観ずることによって、その迷いから離れ、もちろん次には、その「中間」の部分であっても、最後にはとらわれて執着してはいけないということであり、このことがつまりは、二項対立・二元対立というものは、一体どこからが、その一方で、どこからが、もう一方なのかも分かりえない、知りえないものであるということであります。

 更に突き詰めると、分別、分けてしまうということは、実は最初からできないにも拘わらずに、生きていくための便宜上において、やむなしに分別しているものの、この「やむなし」ということが分からずに、迷い苦しんでいるわけであります。もちろん、その原因は、必ずどちらかへの執着によって生じてしまっているのであります。

 生きていくための便宜上ということについては、例えば、薬と毒があって、同じ瓶にそれぞれが別々に入っているとしまして、もしもラベルを貼っていなかった場合、当然に毒だと知らずに毒の方を飲んでしまえば、死んでしまうわけであります。

 もちろん、薬と毒は人間が間違って識別しないために、それぞれラベルで分けたのですが、ただ、その薬も毒も、それぞれの一方の側にとらわれて、執着はできないということであります。

 つまり、人間の都合において仮に分けただけのものであって、本当はそれが薬か毒かなどは、分けえないもので、当然に知りえないものですし、分かりえないものであります。

 例えば、薬の方にとらわれて執着してしまえば、薬だと安心して、いつの間にか大量に服用したり、副作用がきつい薬を、薬だ薬だと投与し続ければ、病気とは関係ないことで死んでしまうこともあるわけです。

 また、毒でも、薬となっているものもあれば、他の生き物たちにとっては、人間が毒としているものが食べ物になっていることもあるわけで、一概にどちらがどちらとも本当は言えないわけであります。

 とにかく一応は便宜上、人間の都合において分けたとしても、むしろ薬とも毒とも言えない、そういうものだとしっかりと認識しておくことで、より慎重に扱うことに繋がり、使い方、用法・用量も間違えなくなるのであります。

 このように無分別を弁《わきま》えておくことが、思惟分別・虚妄分別の世界で生きていく上では重要なことになるわけであります。

 また、二項対立・二元対立を分けてしまった時に、どのような問題が生じてしまうのかにつきましては、更に考えてみる必要があります。

 中論では、「観燃可品」の章において、このことが詳しく論じられていますが、簡単に要約してみますと、「燃えている薪」のありようにおいて、私たちは、どこからが火で、どこからが薪なのかは、はっきりと区別して知ること、分けることは誰にも不可能なことですが、私たちは、そのありようを見て、「火」があって、「薪」があると言います。

 では、「火」と「薪」を本当に分けてしまったらどうなるのかと言いますと、当然に火は火自体では存在できず、燃料がなければ「火」は消えてしまい、「火」は存在しえなくなります。また、薪も薪が燃料として存在するためには、火がなければならず、火と分けてしまうと、薪はただの木片になってしまいます。

 両者は一体として、そこに火があり、薪があると言えるわけであります。いわゆる「而二不二」のありようを呈しています。

 ここで更に両者を分けて一体のものと考えると、より複雑な関係性が浮かび上がることになります。

 両者の一方を肯定させていこうとすれば、そのまた一方は否定されることになるという関係性であります。例えば、火が炎として燃え盛っていく(火の肯定)ならば、薪は、徐々に小さくなり、燃料としての立場が弱くなっていく(薪の否定)こととなり、逆に火が炎を弱めていく(火の否定)と、薪は、燃料としての立場が強くなっていく(薪の肯定)ことになるという、相対矛盾のあり方を露呈してしまうのであります。

 更に、その両者の進行は、最後に皮肉な局面を迎えることとなります。

 火が炎として激しく薪を燃やし続けていけば(火の肯定の進行)、薪は徐々に小さくなって(薪の否定の進行)、やがて薪が燃え尽きてしまった時(薪の完全否定)、そこには火の存在できる場所が無くなり、火も消え去って、火は完全に否定されることとなってしまいます。

 同様に、火の炎の勢いが弱まっていけば(火の否定の進行)、薪は徐々にその燃料としての立場が強まり(薪の肯定の進行)ますが、やがて火が消えてしまった時(火の完全否定)、そこには薪の燃料としての立場も無くなり、薪は木片となってしまって、完全に薪、燃料としてのありようは否定されることになってしまいます。

 このように相対する両者の関係は、分けて考えてしまう限りにおいて、対立を残していないと、結果的に両者ともに完全に相互否定に繋がってしまうという、対立矛盾の迷い・苦しみを如実に表すことになるのであります。

 このことからも、二項対立・二元対立の分別においては、いずれの側にも立つことができない、どちらも肯定、否定共にとらわれて執着してはいけない、ということなのであります。

 以上のことからも、「中論」の説く「相互依存的相関関係、相依性の縁起」のあり方は、実に難解なる複雑な関係性も含んでいることも、しっかりと無分別の立場から理解しなければならないのであります。

 このことをより分かりやすく、少し話を飛躍させて「明」と「暗」との関係について、私なりに述べてみますが、「明」は「明」の世界だけでは、当然に私たちは「明」について、それが「明」とは知りえないわけであり、「暗」があってこそ、「明」であると知ることができます。もちろん、「明」だけの世界は無く、「暗」だけの世界もありえません。互いは「而二不二」の関係にあります。

 もしも、より私たちが「明」を知ろうと思って、「暗」の部分を増やしていけば、私たちは、より「明」を知ることができるようになります。

 このようにして「明」のまわりのほとんどを「暗」としていけば、より一層にきわだって私たちは「明」であると、その存在を知ることができます。もちろん、この場合、「明」の存在する場所は徐々に少なくなってしまっていきます。

 そして、きわだたせていくことを最後まで進めると、どうなるのかといいますと、結局、「明」が全て「暗」となってしまって、「明」は完全に無くなってしまいます。もちろん、「明」が無くなれば、「暗」も存在できずに、両者共に完全否定されてしまうに至るということになります。

 もちろん、同様に「暗」の肯定進行においても、最後は両者共に完全否定に繋がってしまうのであります。

 このように、物事を分別させて考えると、必ず相対矛盾に陥って悩み苦しむこととなってしまうため、相対矛盾を避けるためにも、仏教においては、無分別の重要性が説かれるわけであります。

 とにかく、中論においては、徹底して自性が否定され、無自性なる縁起のありようを「空」とし、中論・「観四諦品」(第二十四・第十四偈)『およそ、空であることが妥当するものには、一切が妥当する。およそ、空〔であること〕が妥当しないものには、一切が妥当しない。』と述べて、一切の成立をあるがままに観れるように、「空」・「縁起」の理解を調えていかなければならないとしているのであります。
 


 


 一、はじめに

 二、仏教の基本法理・四法印の理解

 三、空論・空仮中の三諦について

 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について



 六、無分別について・再考察

 七、生と死を超えて

 八、悩み苦しみを超えて

 九、慈悲喜捨の実践について

 十、諸法実相・真如について

十一、最後に



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