施本 「仏教・空の理解」

ホームページ公開日 平成20年4月21日   執筆完了日 平成20年4月8日

施本発行 平成20年4月28日


岩瀧山 往生院六萬寺

Road of Buddhism


著者 川口 英俊


 七、生と死を超えて


 さて、無分別について、先の章で考察して参りましたように、この世における存在・事象は、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」・「無自性」・「空性」により成り立っており、また、その本当のところは、知りえない、分かりえない、無分別なる「幻」・「蜃気楼」・「夢」なるものとして、つまるところ、当然に、その生じるということも知りえないし、分かりえない、滅することも知りえないし、分かりえないというわけであります。

 にもかかわらず、私たちは生滅・生死分別に迷い苦しんでしまっています。生も死も分別して考えることは、二項対立・二元対立の相対矛盾に陥って悩み苦しむことになるため、当然に避けなければならないのであります。

 これは、もちろん、「八不」の中の「不生不滅」のことであり、中論・「観涅槃品」(第二十五・第三偈)『〔何ものも〕断ぜられることなく、〔あらたに〕得ることなく、断滅でなく(不断)、常住でなく(不常)、滅することなく(不滅)、生ずることのない(不生)、これがニルヴァーナである、と説かれる。』、また、中論・「観法品」(第十八・第四偈)『外に対しても、また内に対しても、〔これは〕「我がものである」「我れである」という〔観念〕が滅したときに、執着(取)は滅せられる。それの滅によって、生は滅する。』とありますように、生と滅(死)のいずれかに執着してしまって苦しむことからも離れなければならないのであります。

 では、具体的にどのように、あらゆるものの生滅変化に際して、あらかじめ思慮しておくべきなのかについて、少し考えておきたいと思います。

 このことについては、偉大なる悟りを開かれたお釈迦様のお亡くなりになった前後のことについての記述がある「大般涅槃経」を参照に致します。邦訳は、「ブッダ最後の旅」中村元訳 岩波文庫(大パリニッバーナ経・大般涅槃経)の引用であります。

 お釈迦様の最後の時を察し、号泣しているアーナンダに対して、お釈迦様はこのようにおっしゃられました。

 「やめよ、アーナンダよ。悲しむな。嘆くな。アーナンダよ。わたしは、あらかじめこのように説いたではないか、--すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるに至るということを。およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。アーナンダよ。そのようなことわりは存在しない。アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためをはかる、安楽な、純一なる、無量の、身とことばとこころとの行為によって、向上し来れる人(=ゴータマ)に仕えてくれた。アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努めはげんで修行せよ。速やかに汚れのないものとなるだろう。」

お釈迦様、最後の言葉

 「さあ、修行僧たちよ。お前たちに告げよう、『もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成なさい』と。」
 これが修行をつづけて来た者の最後のことばであった。

お釈迦様がお亡くなりになった時

 尊師が亡くなられたときに、亡くなられるとともに、神々の主であるサッカ(=帝釈天)が次の詩を詠じた。--「つくられたものは実に無常であり、生じては滅びるきまりのものである。生じては滅びる。これら(つくられたもの)のやすらいが安楽である。」

 お釈迦様がお隠れになられた時、まだ愛執の離れていない修行僧たちは、嘆き悲しみ苦しみに打ちひしがれましたが、既に愛執を離れた修行僧たちは、
 
 「およそつくられたものは無常である。どうして(滅びないことが)あり得ようか?」とよく耐え忍びました。

 尊者アヌルッダは修行僧らに告げた、--「止めなさい。友よ。悲しむな。嘆くな。尊師はかつてあらかじめ、お説きになったではないですか。--〈すべての愛しき好む者どもとも、生別し、死別し、死後には境界を異にする〉と。友らよ。どうしてこのことがあり得ようか?何でも、生じ、生成し、つくられ、壊滅してしまう性のものが、壊滅しないでいるように、というような、こういう道理はあり得ない。・・」

 お釈迦様がお亡くなりになったとき、サッカ(=帝釈天)が詠じたとされる詩は、施本「佛の道」・第五章・涅槃寂静においても取り上げさせて頂いております。

「諸行無常
 是生滅法
 生滅滅已
 寂滅為楽」

 私の解釈

「諸行は無常であり、これは生じては滅するという理《ことわり》である。この生滅の理の真実が正しくそのままを理解できずに悩み煩ってしまうことが、私たちの苦しみの原因であり、この苦しみの原因となってしまっている妄想の集まりである煩悩の生滅を滅しおわって、煩悩を完全に寂滅して、ようやくに苦しみから解脱した安楽なる涅槃・悟りの境地へと至ることができるのであります。」

 と、「大般涅槃経」の内容の引用を見ましたように、愛するものへの執着、愛執を離す上で、「諸行無常」・「諸法無我」をしっかりと理解することが求められるわけであります。

 そして、中論においては、「相互依存的相関関係、相依性の縁起」・「無自性」・「空性」も、その理解を進める上で大切なこととして説かれているのであります。

 このことは、中論・「観法品」(第十八・第七偈)『心の作用領域(対象)が止滅するときには、言語の〔作用領域(対象)は〕止滅する。まさに、法性(真理)は、不生不滅であり、ニルヴァーナ(涅槃)のようである。』とありますように、しっかりと「不生不滅」、「八不」を理解して、戯論(想定された議論)を滅して、生滅・生死分別の迷妄からも離れなければならないのであります。



 


 一、はじめに

 二、仏教の基本法理・四法印の理解

 三、空論・空仮中の三諦について

 四、世俗諦・勝義諦(第一義諦)の二諦について

 五、而二不二《ににふに》・再考察

 六、無分別について・再考察



 八、悩み苦しみを超えて

 九、慈悲喜捨の実践について

 十、諸法実相・真如について

十一、最後に




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