施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」


Road of Buddhism

著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成21年5月15日   執筆完了日 平成21年4月28日

施本発行 平成21年5月28日


十一、「絶対的絶対」について



 さて、次に、
「絶対的絶対」について考えて参りたいと思います。

 前章にて
「相対から絶対へ」について扱いました。それは般若思想・中観思想、論理的縁起関係における「実体否定」が重要な視座となるわけですが、その否定は「分別から無分別へ」、また、「二から不二へ」というものであり、否定の徹底という面において、ある意味で「絶対的否定」と言えるものであります。

 しかし、「絶対的否定」というものを何か肯定的に捉えてしまってもいけないわけであります。なぜならば、
「絶対的否定」の中には、そのもの自身の「否定」も当然に含まれるからであります。

 ですから、
「絶対的否定」を、何か最高真理的なものとして肯定的に扱ってしまったり、真理を示す錦の御旗として高揚してしまってもいけないのであります。

 つまり、これまでも何度も述べて参りました、単なる「言語道断」・「無分別」・「不二」・「無念無想」・「不思不観」であってはいけないと言うことであります。

 もしも、
「絶対的否定」を肯定してしまえば、それはもう「絶対的否定」で無くなってしまうということですが、「絶対的否定」という言葉自体が、そもそも矛盾を内包せざるを得ないものであり、あくまでも戯論を超えるための仮説的扱いとして、理解しておかなければならないものであると考えます。

 それは、
「絶対的否定によって絶対的肯定があり、絶対的肯定によって絶対的否定がある」としての縁起関係で、ただ仮に「絶対的否定」と言えるだけのものに過ぎないということであります。

 絶対的否定は、「空性」を示しているのは確かですが、その空性さえも、
「空によって不空があり、不空によって空がある」という縁起関係において言えている「空」と同様であり、最終的に目指すところではありません。あくまでも絶対的否定を超えたところが重要となります。それはまさに「勝義の空」を、いかに直観的に了解できるかどうかのところで、もちろん、言語表現を超えたところのものでもありますから、その了解を真に言葉や文章で示すことが、もはや不可能となります。

 また、「相対から絶対へ」につきましても、その「絶対」は、
「相対により絶対があり、絶対により相対がある」とする「絶対」であり、あくまでも「相対」との相対にて、言えている「相対的絶対」であって、この絶対でも、相対矛盾を超えることができずに不十分となってしまいます。

 次に、相対に対しての絶対である「相対的絶対」ではなくて、
相対そのものを絶対として相対矛盾を超える「相対是絶対」・「相対即絶対」についてでありますが、これは、もはや、いかなる分別も差別も見当たらない、絶対にして平等であるとする「絶対」となるわけです。

 しかし、これは
「縁起と空」をしっかりと理解した者においてこそ成立するものでもあり、通常の世俗においては、やはり理解しがたいもので、ややもすると抽象的過ぎる扱いとなって、神秘主義的領域へと踏み込みかねなくなる懸念もあります。

 いわゆる
「絶対的絶対」といえるものでありますが、その弱点は、勝義諦的理解なくして、その理解は不可能に近く、世俗諦だけでの理解では、単なる「言語道断」・「無分別」・「不二」・「無念無想」・「不思不観」に陥ったり、阿頼耶識・阿摩羅識・アーラヤ識・自性清浄心・仏性・如来蔵を強く肯定的に扱ってしまう弊害が出てきてしまいかねないと、危惧するところであります。

 また、世俗諦にて
「絶対的絶対」の陥りやすい懸念が、「なんでもあり肯定論」であります。それはややもすれば、あらゆる全てに仏性があるとする「一切衆生悉有仏性」や、あらゆる全てが仏性の顕現であり、仏性そのものであって、仏に成れるという、「山川草木悉皆成仏《さんせんそうもくしつかいじょうぶつ》」のような「本覚仏性論」を、そのまま世俗諦で捉えてしまい、極端な肯定論として扱ってしまえば、もう何でもあり、何をしても良いという肯定だけが、はびこってしまい、仏教は大きな落とし穴にはまってしまうこととなります。

 それは、例えば、
「執着してとらわれなければ、戒律を守る必要もなく、殺生《せっしょう》も女犯《にょぼん》も好きにしても良い、何だってしても良いのだ」というような、人間の欲望・煩悩までもを、そのまま認めてしまい、極端に肯定へと向かってゆくと、やがては「仏教無用論」・「修行無用論」にまで及び、仏教そのものが破壊されることになってしまったのが、いわゆる「天台本覚思想」の問題であります。

 また、このことは、
「煩悩即菩提」・「生死即涅槃」の誤った捉え方とも似ているところであり、いわゆる煩悩がそのまま悟りだという煩悩肯定論、迷いがそのまま涅槃だという迷い肯定論であります。

 
「無明即明・煩悩即菩提・生死即涅槃・世俗諦即勝義諦」というものは、あくまでも「勝義諦」における側から世俗世界を見てこそ真に理解できるものであり、「勝義諦」に至らない限りは、安易に無明・煩悩・生死・世俗諦の肯定へと傾きかねず、あまり軽々に扱うべきではないものであると考えます。

 この「天台本覚思想」の陥った問題をしっかりと理解した上で、これまで扱って参りました
「縁起と空」から、「相対的絶対」を超えた「絶対的絶対」を、一応は仮に立てて、そこにおいて今度は智慧を修めて、「勝義の空」を直観した上で、「不二而二 二而不二」・「世俗諦から勝義諦、勝義諦から世俗諦」と自由自在にその両方の真理を行き来しての慈悲の実践、仏法真理の探求が求められるものであると考えます。

 また、この「絶対的絶対」は、
西田幾多郎氏の哲学的視座である「絶対無」の考えにも非常に近いものと思われますが、このことにつきましては、また機会を改めまして考察できましたらと存じます。




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   十、相対から絶対へ

 十一、絶対的絶対について

 十二、確かなる慈悲の実践について

 十三、現代日本仏教の抱える課題について

 十四、最後に


 参考・参照文献一覧




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