施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」


Road of Buddhism

著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成21年5月15日   執筆完了日 平成21年4月28日

施本発行 平成21年5月28日


八、華厳思想について



 華厳思想は、奈良時代に日本に伝わり、
南都六宗の一つ「華厳宗」として、現在でも大仏で有名な東大寺が根本宗旨としています。

 まず、華厳思想では、
世界は外界に無く、「心」から現われ出しているものとして「三界唯心」を扱います。

 三界とは、
欲界・色界・無色界のことで、簡単に言いますと全ての世界のことを表し、全ての世界は、ただ心によって現出するものであり、心を離れては何も存在していないとして説明されます。

 この唯心は、唯識と誠に似ていますが、
華厳思想の場合は、如来・悟りの側(勝義諦)の心から現出している世界のことについて、主に説明されていくこととなり、唯識思想では、各識の認識作用において、無明の妄念・妄執、煩悩に汚されて覆われてしまっている者の側(世俗諦の心から、現出してしまっている迷い苦しみ(虚妄分別)の世界のことについて、主に扱う点において異なります。

 華厳思想における心のありようは、
三界は悟りの世界として顕現するということでもあり、華厳思想の唯心は、このことを重視して、そもそも、そのように悟りの世界を顕現させられるものだとしていきます。

 華厳思想の唯心の考えは、
「十重唯識」として説明されます。ここではその詳細までは扱いませんが、目指すところは「重重無尽の縁起」を、いかに唯心・唯識において捉えるかということであります。

 とにかく、今回はあまり華厳思想の難解複雑なことには触れずに、代表的な教説としての
「仏性現起《ぶっしょうげんき》」・「重重無尽の縁起」・「法界縁起」について扱うことと致します。是非、ご興味を持って頂きまして、関連の専門書をお読みになられるきっかけとなりましたら、幸いであります。

 まず、
「仏性現起」とは、「本来的にあらゆる全ては、仏性の現れである」ということで、仏性思想については、次章にて詳しく扱いますが、そこでは、まず、一切衆生には仏性が備わっていると説明されるものの、それは、仏になれる可能性を持っているということであり、つまり、本来備わっている仏性は、真理を知らない無明の闇の中、妄執・煩悩によって覆われてしまっている、隠れて、眠ってしまっているため、菩提心・慈悲心、仏道修行、智慧の開発によって、その仏性を目覚めさせないといけないというものであります。

 もちろん、華厳思想においても、そのような面があるものの、どちらかと言えば
、もともと全ての一切は、仏性の現れであり、あらゆる全てがそのままで真理である、とも説きます。唯心のありようもそのように解されるところがあります。

 実は、ここが非常に難しいところでもあり、
全てがそのまま仏としての現れであるのならば、修行も必要ない、戒律も守る必要がない、特に別に何もしなくて良いことになってしまい、更には何をしようが構わない、というような極端な楽観主義にかたよりかねない懸念もあるからです。「本覚仏性」の問題でありますが、このことも次章にて扱うことと致します。

 また、華厳思想では、
初めて発心(発菩提心)した時、すなわち、それが「正覚《しょうがく》」(正しい悟り)であるとさえされます。

 普通であれば、
発菩提心を起こしてから、徐々に仏道修行を行い、菩薩行・慈悲行に励んで、それからようやくに至る境地が「正覚」と考えますが、華厳思想では、「初発心即正覚」と言うわけであります。

 この場合の初発心とは、
強い仏法への確信的な「信」であり、発心したからには、仏道から、もはや外れることはない、もう目的の境地に達したようなものだとして、もう正覚したも同然であるという意味合いでありますが、このことも捉え方を誤ってしまっては、弊害が出てきてしまうものであり、「初発心即正覚」は、目的地へ到達するためには、確かな始めの一歩を歩み出さなければならないという点を、特に強調して重視したと言えるのではないだろうかと考えます。

 仏性現起については、
仏性思想・如来蔵思想の萌芽でもあり、衆生は全くその仏性・如来蔵に気づいておらず、大慈大悲の如来の働きかけによって、その仏性が現れ起こるということと理解しておければよいのではないかと思います。

 次に、華厳思想の縁起において、最も重要な教説である
「重重無尽の縁起」についてであります。これはこれまでの縁起の理解から、応用として更に進められて表されたものと解していますが、この世界の現象・事象・存在のありようについて、様々な個物は、相互に関係し合い、無限に重なりあっているとして、「相即相入」・「融通無礙《ゆうずうむげ》」に展開しており、一切は関係し合って、関係し合っていないものは無いとして説明されます。

 そのことは特に
「十玄縁起無礙法門《じゅうげんえんぎむげほうもん》」として、「一即一切、一切即一」・「一入一切、一切入一」「一即多、多即一」・「一中多、多中一」などが説かれます。

 今回は、その詳細までは触れませんが、
「一滴の雫に、全宇宙が宿る」という表現がありますように、「一つの存在の中に、全宇宙全ての存在があり、全宇宙全ての存在の中に、一つの存在がある」というような表現となり、また、「一瞬の中に永遠があり、永遠の中に一瞬がある」とも表現するわけであります。

 これらは、まさに
勝義諦の世界から世俗諦の世界を観てこそ、言えることではないかと考えます。そうではなく、世俗における論理だけでこの縁起を理解することは、到底不可能なように思えます。もちろん、最終的には、雫も宇宙も、一瞬も永遠も、それぞれ実体が無いものとしての扱いを目指すものでもあり、「一即多、多即一」・「一即一切、一切即一」と言う表現は、「即非の論理」における空の扱いにも通じるところで、全ての存在は何らの差別の無い事態であって、「全ては無自性・空として、無分別なる平等である」ということを示しているものだと解せます。

 また、華厳思想では
「六相円融義《りくそうえんゆうぎ》」として、「重重無尽の縁起」の関係性を論じます。その詳細も今回は省かせて頂きますが、「全体と部分との関係性」、「全体の中での部分と部分との関係性」について考える難解なものであります。

 次に、
「法界縁起」についてでありますが、「重重無尽の縁起」のありようを四つの法界に分けて説明します。

四法界

事法界・・この世における事物の存在を分別して理解している世界のこと。主体と客体、自と他、有と無、事物Aと事物B、また善と悪、美と醜、苦と楽などを明確に実体的に分けてしまって理解している世界であり、事物や概念・観念を分別・差別し、それぞれを実体視して、固定して捉えて執着してしまっている世界と言えるわけであります。時空的縁起における原因・条件・結果のそれぞれを個物として捉えている世界とも言えます。

理法界・・特に論理的縁起を理解した上で、全ての事物や概念・観念における分別・差別の相は、本来、「無自性・空」であることを理解している世界のこと。事法界の裏に控えている「無自性・空」の世界であると言えます。

理事無礙法界・・理法界と事法界が、さまたげあうことなく融合している世界のこと。理法界における「無自性・空」の相があって、事法界(全ての事物や概念・観念)が成り立っている、事法界のありようによって、理法界も成り立っていると言えると解せる世界でありますが、このことは「即非の論理」、般若心経の「色即是空 空即是色」の示すところと同意ではないかと考えます。○ということは、非○(空)であって、○と言えているだけであるということであり、「○によって非○があり、非○によって○がある」という論理的縁起関係について述べている世界と理解できます。また、「不二而二 二而不二」のありようを示している世界とも考えることができます。

事事無礙法界・・事法界のあらゆる存在同士は、さまたげあうことなく融通している世界のことですが、まさに、事物同士における無限の関係性を示しているものと解せます。全ては理法界における「無自性・空」ではありますが、その理法界についての「無自性・空」ということについてのとらわれすらも離してみて、事と事同士を観てみると、あらゆる全ては、無分別・不二の平等として顕現し、全ての存在は融通無礙の関係として、「A」=「非A」であり、このことを具体的に示しますと、「A=B=C=Z=Y・・」、「一=二=三・・千・・無量大数」となり、更には概念・観念の分別・相対もここでは、「主体=客体」、「自=他」、「有=無」、「善=悪」、「美=醜」、「苦=楽」、「幸=不幸」、「過去=未来」、「去る=来る」、「走る=走らない」、「肯定=否定」、「平等=差別」、「空=不空」、「迷い=悟り」、「煩悩=菩提」、「世俗諦=勝義諦」となるなど、挙げ出すともうキリがありませんが、具体的にはこのような世界の顕現のことであると考えます。それは、「不二而二 二而不二」を無礙自在に了解していながらにおいての、一切無差別平等の世界とも解せるのではないかと思います。

 事事無礙法界のありようは、もはや世俗の世界で普通に考えますと理解は不可能ですが、少し文章にしてみるならば、「あなたは私であって、私はあなたである」、「私は宇宙であって、宇宙は私である」、「ブラックホールは私であって、私はブラックホールであり、星であり、銀河である」、「馬は牛であり、カエルであり、ゴキブリであり、飛行機であり、手であり、桜であり、タンポポである」、「一刹那は五十億年であり、一兆年である」など、このように、もう世俗の常識において普通に考えてしまうならば、到底理解できない表現がいくらでも展開できます。もう少し述べてみますと「私は亡くなったあなたのお父さんであり、亡くなったあなたのお母さんである」、「あなたは織田信長であり、明智光秀であり、豊臣秀吉であり、徳川家康であり、私である」、また、「一歳の母親が五十歳の男子を産む」、「五十歳の男子が一歳の母親を産む」などどうでしょうか。

 これらの表現は、まさに
言葉の世界を超えて言語道断、戯論寂滅、勝義諦の真理へといざなうための表現でありますが、一応、世俗においては、「勝義の空」へ向けての理解のための、世俗的ギリギリでの表現として理解しておければ良いのではないだろうかと考えます。

 しかし、気をつけておかなければならないのは、
これまでの縁起・空をしっかりと理解しておいてこその表現であり、縁起も空も知らない者に、いきなりそのような表現で事事無礙法界について説明したとしても、何ら意味の無い、無駄なことになってしまいかねないものでしょう。

 また、禅僧同士の禅問答において、時につじつまが合わないようなやり取り、普通に考えると奇怪なやり取りが展開されることがありますが、それも、お互いに
「縁起と空」の理解が高度に及んでいてこそ成立しているものであり、何も知らない者にとっては、ただチンプンカンプンなものとなってしまうことでしょう。

 例えば、
「いかなるが仏であるのか?」と問われて、「使い回しの便所の紙」と答えたり、「麻、三斤(千八百グラム)」と答えたり、指を一本立てて示したりと、それらは普通に世俗の世界で考えてしまうと、不思議で奇怪なやり取りと思われるでしょうが、双方ではそれで勝義的な域、勝義の空の域で成立しているのであります。

 さて、「重重無尽の縁起」を説明する「十玄門」の一つ、
「因陀羅網《いんだらもう》境界法門」について触れておきたいと思います。

 
因陀羅とは、インドラ神(帝釈天)のことで、そのインドラ神の宮殿には、宝網があって、その宝網にある無数の網の結び目には、無数の宝珠が掛かっており、その宝珠は互いに映し合って、その映し合った宝珠が、更に互いに重なり映し合って、全ての宝珠が一つの宝珠に映り、一つの宝珠に全ての宝珠が映っているということで、宝珠の「一」には、全ての宝珠である「多」が交映しており、また全ての宝珠の「多」には、全ての宝珠の「一」が交映しているということで、「一即一切、一切即一」・「一入一切、一切入一」「一即多、多即一」のありようを説明したものになっています。

 この
因陀羅網については、宇宙物理学における、宇宙のありようについての仮説に「弦理論《げんりろん》」(超弦理論・超ひも理論、M理論も含む)がありますが、この仮説では、極めて小さい弦を宇宙の最小基本構成要素として、全ての素粒子はこの弦上においてつながっての振動状態にあるとして、その理論を展開しますが、この弦を網として、素粒子を宝珠とするならば、全てはつながり関係性を持っているとし、非常に因陀羅網に近いことを表しているものとして、仮説とはいえども、その相似性には非常に興味深いものがあります。

 さて、改めまして
世俗諦と勝義諦の二諦からまとめますと、時間的縁起・空間的縁起・論理的縁起が世俗諦としての扱いの縁起として、如来・悟りの勝義諦的なところから観た縁起が、華厳思想の「重重無尽の縁起」と言えるのではないかと考えます。

 華厳思想の縁起は、
如来・悟りの勝義諦的ところから観た無限の縁起関係を示して、如来・悟りの世界のありようを、私たちに伝えようとするもので、それは無明の迷いの世界にある私たちを、如来・悟りの世界へと向かわせるために説かれたものであると考えられます。

 是非、華厳思想についての更に思想的に詳しいことは、専門書をお読みになられますことをお薦め致します。




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   一、はじめに

   二、仏教基本法理の理解

   三、時間的縁起・空間的縁起について

   四、論理的縁起について

   五、般若思想について

   六、即非の論理について

   七、中観思想・唯識思想について

   八、華厳思想について

   九、仏性思想・如来蔵思想について

   十、相対から絶対へ

 十一、絶対的絶対について

 十二、確かなる慈悲の実践について

 十三、現代日本仏教の抱える課題について

 十四、最後に


 参考・参照文献一覧




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