施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」


Road of Buddhism

著者 川口 英俊

ホームページ公開日 平成21年5月15日   執筆完了日 平成21年4月28日

施本発行 平成21年5月28日


二、仏教基本法理の理解


 今回もまずは、仏教の基本法理につきまして整理して参ります。
四法印、「諸行無常《しょぎょうむじょう》」・「諸法無我《しょほうむが》」・「一切皆苦《いっさいかいく》」・「涅槃寂静《ねはんじゃくじょう》」と四聖諦、「苦諦」・「集諦《じったい》」・「滅諦」・「道諦」でございます。

 四法印につきましては、前号から特に大きな解釈的変更はございませんので、前回の内容をおさらいし、簡単に縁起の観点から補足しておきたいと思います。

 さて、始めに「諸行無常」でありますが、
「諸行」は「無明《むみょう》・煩悩で真理を知らないこと、愚かさによって、様々に存在・事物に形を作り上げてしまった上での意思・行為」・「主客の二分から始まる虚妄分別によって、様々に存在・事物に形をもたらしてしまった上における意思・行為」ということで、その意思・行為により、様々にこの世の現象・事象における存在について、あたかもそれらを常住・固定不変なるものとして捉えてしまい、本当は「常」も「無常」も、そのどちらでもないにもかかわらず、そのことが分からずに、常住・固定不変なるものとして「常」であると、とらわれて執着してしまうことを避けるために、「常」としてしまう「諸行」を前提として、その「諸行」は「無常」であるとして、「常」を否定するための教説であります。

 この諸行無常における、生滅変化のありようについては、次章にて詳しく述べさせて頂きます「時間的縁起」、つまり、時間的先後の因果関係によって理解されるものであります。

 
時間的先後の因果関係とは、現象・事象における存在は、様々な原因と条件に応じて生滅変化していくということであり、もう少し詳しく述べますと、「AはBという原因、Cという条件によって生じたが、Bという原因、またはCという条件が無くなってしまう、変化してしまうと、Aは成り立たなくなってしまい、もはや、Aと言えなくなり、Aは滅することとなる。また、別のDという原因、Eという条件によって、AがFになり、更にGという原因によって・・」、そのBという条件も「BはHという原因、Iという条件によって生じたが・・」として示されていくものであります。

 もちろん、この場合の「A」、「B」、「C」・・などの個物については
最終的に「無自性・空」であって、分別して捉えることはできませんが、「時間的縁起」においては、一応、それら個物が仮に有るとした前提において、各個物を条件・原因・結果として示していることには、十分な注意が必要となります。

 とにかく、「諸行無常」の理解では、この世における一切の存在は、刻々と様々な原因・条件によって変化し続け、常住・固定不変なるものはない、ということを理解して、あらゆる事物に対する執着を離していくことが求められるのであります。個物の「無自性・空」につきましては、後の章において詳しく扱って参ります。

 次に、「諸法無我」でありますが、「諸行無常」における時間的縁起関係を理解した上で、この世における一切の存在は、刻々と様々な原因・条件によって変化し続け、常住・固定不変なるものはないということから、更に、この世における一切の存在には、何ら「実体が無い」ということを示すものであり、つまり、
「諸法」とは「様々に認識・判断して形成された存在・事物」でありますが、その存在・事物を実体あるものとして、とらわれてしまっているということを、「我」でも「無我」でもどちらでもない、ということが分からず、「我」(実体)に執着してしまうことを離すために、「我」としてしまう「諸法」を前提として、その「我」は「無我」であると否定しているものであります。

 この無我によっての実体否定は、「時間的縁起」を踏まえた上で、第三章にて詳しく述べさせて頂きます
「空間的縁起」としての「Aがあるためには、Bがないと成り立たない、Bがあるためには、Cがないと成り立たない、更にCが・・」、「Dがあるためには、EとFがないと成り立たない・・HとIとJとによって、Kが成り立っている・・」という空間的相互依存関係と、更に第四章において扱います「論理的縁起」としての「これあればかれあり、これなければかれなし」・「これによってかれがあり、かれによってこれがある」として、「これ」も「かれ」も相互依存的・相互限定的・相互相関的・相資相依的に言えているだけに過ぎないものとして、「これ」も「かれ」も、それが単独・独立・孤立して成り立っているということではなく、「これ」も「かれ」も実体が無いということを表すわけであります。これらの「空間的縁起」・「論理的縁起」と「時間的縁起」も合わせて考えることによって、あらゆる存在の「無我」を示すものであります。

 「一切皆苦」につきましては、具体的に
「生・老・病・死」の四苦、そして、「愛別離苦《あいべつりく》」・「怨憎会苦《おんぞうえく》」・「求不得苦《ぐふとっく》」・「五蘊盛苦《ごうんじょうく》」の四苦を合わせて、「四苦八苦」として表されますが、「諸行無常」の中、あらゆる全てが変化してゆくため、その変化を止めようとしても止まらない、止めようがない、止まるものがない、その不安定さについて不満となってしまう、また、この世においては、実体視して事象・現象を捉えようとしても、何ら実体的なものが見あたらず、どんなに実体を探そうと求めても探せるものではなく、得ることができないということがわからないままに、迷い苦しんでしまうのであります。

 つまり、簡単に述べますと無常と無我を理解できないため、苦しみに陥ってしまうということでもあります。

 また、
思考・思慮・思惟して、この世におけることを虚妄分別して、相対判断・認識してしまっている以上、必ず相対矛盾が生じてしまい、迷い苦しむことになるということでもあります。相対矛盾につきましては、後の章にて詳しく扱うことと致します。

 「諸行無常」と「諸法無我」という教説については、施本「仏教・空の理解」でも述べさせて頂きましたように、「世俗諦《せぞくたい》・勝義諦《しょうぎたい》(第一義諦)の二諦」からの理解も重要であり、あくまでも世俗諦において「常」・「我」にとらわれて執着してしまっている者たちに対して、お釈迦様が「無常」・「無我」と説かれた教えであります。

 それは、
中論・「観法品」(第十八・第六偈)『もろもろの仏は「我〔が有る〕」とも仮説し、「我が無い(無我である)」とも説き、「いかなる我も無く、無我も無い」とも説いている。』とありますが、つまり、お釈迦様は、「常」・「我」にとらわれて執着している者には、「無常」・「無我」を説き、「無常」・「無我」にとらわれて執着している者には、「常」・「我」を説き、「常・無常」・「我・無我」のどちらにもとらわれて執着している者には、「無常・無無常」・「無我・無無我」を説かれたということであります。

 このことを理解して
、最終的には戯論《けろん》(形而上学的議論)が滅されて、言葉では語りえない、つまり「言語道断」の領域に至って、存在・事物を虚妄分別《こもうふんべつ》し、形成してしまうことで認識・判断したことによる意思・行為も無くなって、無差別平等・不二平等を知見し、無分別の智・般若の智など、智慧を滋養させて、無明の闇、愚かさ、煩悩を滅して、一切へのとらわれ執着も無くなり、迷い苦しみから完全に離れた、という状態のことを「涅槃寂静」と言うわけですが、ここで涅槃についての仏教における四つの大別について少しまとめておきます。

有余涅槃《うよねはん》・・精神的な面においては煩悩を完全に断滅できたものの、肉体がある限り、その肉体による根本的生存欲求による苦しみは残ってしまっているという段階の涅槃のこと。

無余涅槃《むよねはん》・・有余涅槃に至った者が、死によって、肉体による苦しみも無くなり、精神・肉体共、完全に涅槃の段階に入ったということ。大般涅槃とも言われる。

本来自性清浄涅槃《ほんらいじしょうせいじょうねはん》・・人間の本性は自性清浄であるが、煩悩に覆われてしまっているため、そのことを自覚することができない状態であるものの、一切衆生はもともと如来を蔵するものであり、仏性を有している、本来的には仏の悟りの状態が備わっているとして、そのことを涅槃と言うわけであります。このことにつきましては、第九章の「仏性思想・如来蔵思想」において詳しく扱うことと致します。 

無住処涅槃《むじゅうしょねはん》・・煩悩障《ぼんのうしょう》(我執によって生じる煩悩による障り)と所知障《しょちしょう》(法執によって生じる煩悩による障り)を断滅し、「我執」と「法執」を離れ、「我空」と「法空」を真に理解し、もはや、「迷いと悟り、生死と涅槃、煩悩と菩提」のそのどちらにもとらわれることもなくなり、「般若の智・無分別の智」などの智慧の働きが備わって、「不二而二《ふににに》 二而不二《ににふに》」のありようを理解し、「勝義諦から世俗諦へ、世俗諦から勝義諦へ」という自由自在なる智慧の働きによって、一切衆生救済のための慈悲の活動を展開する境地における涅槃のことであります。

 「涅槃寂静」につきましては、前回の施本において勝義諦に近いところであるとして説明させて頂きましたが、確かに勝義諦に近いものの、この涅槃寂静も他の三法印と同様に、あくまでも世俗諦的なところでの領域に留まる教説であると考えます。それは、やはり涅槃と言えども、概念的な理解の域を抜けるものではなく、最終的な勝義諦においては、いかなる概念であったとしても、もはや実体視することはできない、つまり、「涅槃」も「空」というわけであります。

 次に四聖諦につきましても縁起の観点から簡単に整理しておきたいと思います。

 
「苦諦」とは、四法印の「一切皆苦」と同意で、私たちは四苦八苦する世界、真理を知らずに無明の闇に覆われた迷妄の苦しみの世界を過ごしてしまっている、ということであって、それは、苦しみをもたらす原因である渇愛《かつあい》(根本的欲望)、我執などの様々な妄想執着(妄執)を生み出す煩悩、または、真理を知らない愚かさ(無明)が原因であるということの「集諦《じったい》」であって、その原因となってしまっている無明の闇を打ち破り、渇愛・妄執を断滅し、煩悩を止滅させるという「滅諦」のためには、「菩提心《ぼだいしん》」を起こして、智慧を開発していくための「戒・定・慧の三学」・「八正道」・「六波羅密《ろくはらみつ》」など仏道・菩薩道の実践、自利利他・慈悲行の実践など、「道諦」が必要だということであります。

 縁起的には、集諦が原因となって、苦諦が結果となる因果関係を
「流転縁起《るてんえんぎ》」と呼び、道諦という原因から、煩悩を無くして滅諦へと至る結果となる因果関係を「還滅縁起《げんめつえんぎ》」と呼びます。

 これは、十二縁起の「無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死」における、「無明→行→・・生→老死」という迷いが生じる流れ(順観)を
「流転縁起」として、「老死→生→・・行→無明」という迷いの原因が滅していく流れ(逆観)を「還滅縁起」として表すものでもあります。

 十二縁起は、なぜ苦しみが生じるのかということについて、徹底して知見していくために順を追って、その因縁を記したものであり、目指すところは、苦しみの原因は無明にあることを明らかにして、その無明を打ち破って、智慧を開発し、迷いを離れて、苦しみをなくしていくためであります。

 ただ、やはり注意が必要となりますのは、「一切皆苦」・「涅槃寂静」と「四聖諦」については、
「苦・楽」や「善・悪」、「迷い・悟り」など、いわゆる(主観的・恣意的)価値判断を扱うことになるため、最終的には、論理的縁起関係をも、しっかりと理解して考えなければならないという難解さが控えていることであります。つまり、「苦・楽」・「善・悪」・「迷い・悟り」も、それぞれ実体が無い「空」ということですが、そのことにつきましても後の章にて詳しく扱います。

 また、十二縁起から、業によって私たちは苦しみの世界を輪廻《りんね》するものとして、
「業感縁起《ごうかんえんぎ》」が説明されます。

 それは、輪廻転生を時間的縁起としてとらえて、苦しみの原因が無明の煩悩(惑)による思惟・思考・意思・行為(業)にあって、その思惟・思考・意思・行為(業)によって、苦なる生存が繰り返されるということで、つまり、
「惑→業→苦」の連鎖的・円環的因果関係のことでありますが、特に部派仏教時代における説一切有部《せついっさいうぶ》が唱えた考え方であります。

 もちろん、
業感縁起についても、善悪という価値判断、「善因楽果・悪因苦果」の因果関係を伴うものであり、やはり、最終的には、論理的縁起の理解が待たれるもので、輪廻転生については、あくまでも煩悩を滅する目的のために、方便的な意味で説かれたと解するのが妥当ではないかと考えます。

 以上、仏教の基本法理につきましては、非常に重要な教説ではありますが、その教説に執着してしまってもいけません。般若心経には、
「苦しみも、苦しみの原因も、苦しみを制することも、苦しみを制する道もない」とありますように、「四聖諦」を実体視してしまうことも否定しており、また、中論「観涅槃品」(第二十五・第二十四偈)における『〔ニルヴァーナとは、〕一切の得ること(有所得《うしょとく》)が寂滅し、戯論(想定された論議)が寂滅して、吉祥なるものである。ブッダによって、どのような法(教え)も、どのような処でも、だれに対しても、説かれたことはない。』とありますように、ブッダのいかなる教説すらも実体視してしまうことができないということは、最終的に押さえておかなければなりません。




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 章

   一、はじめに

   二、仏教基本法理の理解

   三、時間的縁起・空間的縁起について

   四、論理的縁起について

   五、般若思想について

   六、即非の論理について

   七、中観思想・唯識思想について

   八、華厳思想について

   九、仏性思想・如来蔵思想について

   十、相対から絶対へ

 十一、絶対的絶対について

 十二、確かなる慈悲の実践について

 十三、現代日本仏教の抱える課題について

 十四、最後に


 参考・参照文献一覧





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