施本 「佛の道」 発行日 平成19年12月28日   執筆完了日 平成19年11月25日

第三章 諸法無我


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岩瀧山 往生院六萬寺

著者 川口 英俊

第三章 諸法無我

 次に「諸法無我《しょほうむが》」についてであります。これは諸行無常からの派生的な真理として理解していますが、この世の存在において、一切のものが変化していく中では、固定した実体としての「我」というものはない、変化するものには、主体たる「我」は成り立たないということであります。

 普通、私たちは、存在について、自分がある、相手がある、生き物がある、モノがあると、その存在が常にあるものとして捉えてしまいがちです。

 しかし、それはそのものが常に変わるものではない、永遠に不変なる常住なるものとしての前提においてこそ成り立つことであり、諸行無常なることを無視してしまって、「我」というものを認めてしまおうとすればするほどに、そうではないことが、悩み煩いとなって、それが苦しみになるのであります。

 それでも私たちは無理矢理に「我」を認めようと、何らかの理由付けを探すために想像をめぐらせて頑張りますが、結局は妄想に終始してしまい、幻想・蜃気楼を見て、それを「我」だとしてつかもうとするものの、決してつかめることはないのであります。

 諸法無我の教えの本質は、この世における存在には、始めから何もしがみつけるもの、執着できるものはないとして、私たちが勘違いして「ある」としてしまっている「我」についての妄想を止めなさい、「我」があるとして見ているのは、幻想・蜃気楼みたいなものですよ、実体はないですよ、つかめないですよと気付かせるためであります。

 諸行無常なる変化をそのままの変化として、変化するものが全ての存在の現象であると受け入れて認めることで、「我」があるのだと錯覚して悩み煩う妄想を止めることが大切になるわけであります。

 では、無常なる中における私たち人間存在とは一体何であるのか、それを仏教では、五蘊仮和合《ごうんけわごう》のものであるとしています。

 五蘊とは、色《しき》・受・想・行・識で、それぞれ、色(物質・肉体)、受(感覚・感受、六感〔眼・耳・鼻・舌・身・意〕、五蘊の場合における六感では「意」は含まない場合もある)、想(表象・概念)、行(意志)、識(意識・認識)で、その五蘊が無常なる中、因縁によって仮に集合しているものが、私たち人間の存在であり、その五蘊も当然に移ろい変化する中にあって、決して永遠不変・常住なるものではなく、五蘊にも固定した実体たる「我」はないため、五蘊それぞれも「自分のもの」ではなく、もちろん何もつかめないし、執着できるものではありません。

 私たちの苦しみは、五蘊にしがみついて「これが自分だ、これが自分のものだ」と妄想してしまうことから生じてしまうわけであります。その妄想を打ち破ることが、諸法無我の理解においては大切となります。

 五蘊を私なりに少し順番に例えで挙げてみますと、色・自分の肉体(新陳代謝を繰り返しながら変化して衰えゆくもの)がある、色・太陽(水素とヘリウムの熱核融合反応の塊)がある、受・人間は、肉体の感覚器官、この場合は眼・身で太陽の光と熱を感じる、想・太陽についてのイメージ・概念を作る(丸いものだ、明るいものだ、暖かいものだなど)、行・行動意志が起こる(太陽が出たから動こう、太陽の明るさ、暖かさを利用してあれをしよう、これをしようという意志が起こる)、識・認識(私たちが動くことができるためのものだ、ありがたいものだ、恵みをもたらすものだなどとして認識する)としましょう、しかし、全ては刻々と移ろい変化していくものであるため、色・太陽も実際は熱核融合による水素とヘリウムを消費しながらの爆発の連続で、コロナ、黒点、太陽風、磁力線などの出現も目まぐるしく瞬間で生滅変化し続けていて、私たちの色・肉体である眼や身(便宜上、ここでは皮膚)も刻々と新陳代謝を繰り返しながら変化し衰え、老化してゆく中にあり、あるいは病気となり機能が低下する、見えなくなる、感じなくなるなど死へと向かう中で変わりゆき、受・感覚も、例えばまぶしすぎて見難くなったり、また弱くなった眼や皮膚が紫外線を受けると痛くなったりと、感じ方も時間や場所、年齢・状況・状態など時々によっても刻々と当然に変わっていけば、想・太陽についてのイメージ・概念も、色・受が変われば、例えば、私たちを痛くして害するものだ、つらさをもたらすものだ、日照りが続けば、過酷なものだと変わっていくこともあり、そして、これに従って行・行動意志も、太陽を避けなければならない、対策をしなければならないと変わることもあります。これらの色・受・想・行によって、識・認識についても、気をつけなければならないものだ、嫌なものだ、つらいものだ、危ないものだなどに変わっていくことになるでしょう。

 このようにして、無常なる中においては、絶えず変化していく五蘊のいずれにおいても「これが自分だ」とすることは不可能であり、「我」はやはり成り立たないということであります。「自分がある」として妄想してしまって苦しむ「我」をなくし、五蘊のいずれにも執着しないように「我執」を無くしていかなければならないのであります。

 もちろん、あらゆる全ての存在においても固定した実体としての「我」というものはないというのが、この諸法無我の教えなのであります。


   一、はじめに
  二、諸行無常

  四、一切皆苦
  五、涅槃寂静
  六、四聖諦
  七、八正道・中道
  八、因縁生起
  九、智慧
  十、無執着
 十一、無所有
 十二、無価値
 十三、空
 十四、慈・悲・喜・捨
 十五、少欲知足
 十六、現実の瞬間瞬間を生きる
 十七、煩悩への対処
 十八、無記 
 十九、四弘誓願
 二十、最後に

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