施本 「佛の道」 発行日 平成19年12月28日   執筆完了日 平成19年11月25日

第十六章 現実の瞬間瞬間を生きる


〜 これまでの施本 〜

施本 「仏教・縁起の理解から学ぶ」
施本「仏教・空の理解から学ぶ」
施本「仏教・空の理解」

 ・
施本「仏教 〜 一枚の紙から考える 〜」
施本「佛の道」


岩瀧山 往生院六萬寺



著者 川口 英俊

第十六章 現実の瞬間瞬間を生きる

 世間の現実は矛盾だらけであり、世界においても激しい生存競争、争い事、犯罪、資源の貪り、自然環境破壊、戦争などは絶えず、現在の日本社会でも政界・官界・財界における汚職腐敗は絶えず、醜い偽装・詐欺・粉飾・談合事件が横行し、欺瞞に満ち溢れてしまっています。また、財政難による増税・高負担が押し寄せ、高齢者や障害者など社会的に弱い者たちの苦しみは、実に顕著・甚大となり、更には生活する全ての者にとっても、ますます生きていくことが苦しくなってしまっています。

 そのような現実と、私自身、地域において福祉活動や市民活動などの社会活動をしていく中において、徐々に世の中の様々な矛盾に対して、懐疑主義から、冷笑主義、諦観主義、虚無主義になり、どうせ死ぬのに、いずれ人類も絶滅するのに、宇宙もやがて滅するのに、何をやっても無意味で、あらゆることは無に帰する中における程度の問題であると、「無帰論」を表したり、どこか厭世主義に近いところまで陥ってしまった時期があります。

 しかし、それも今になって振り返ると、「我」に執着していた「我執」がゆえに陥ってしまった傲慢、不満・不安・恐怖などの悪感情の連鎖、循環が生み出したものであり、あのままでは危うくどうしようもない悲観主義にまで至るところでありました。

 自身の苦しみの一つの原因は、「我執」にあったわけであります。つまり、「我」はないのに、「自分が」「自分は」「自分に」「自分を」「自分で」と「自分のこと」が中心となって様々なことを考えてしまい、妄想を巡らしてしまっていたわけであり、無我の理解が全くできていなかったのであります。

 また、誰もがいずれ死ぬことは確かでありますが、無常であるからこそ、因縁の中で生かされて生きていけ、今の瞬間、瞬間を生きることができるのであって、しかも、精進努力によって因縁を可能な限りにおいて調整することで、無常の変化自体の方向を少しぐらいは変えることもできるのであります。

 無常を悲観的に捉えるのではなくて、逆にこれから一体どうなっていくのだろうか、少し因縁を調整して無常の方向を慈・悲・喜・捨の実践で変えてみようかな、と楽しんでいければ良いのではないだろうかと今は思っています。

 また、一瞬一瞬が新しい自分であります。一瞬一瞬が新しい全てであります。嫌なこと辛いこと苦しいこと、楽しいこと、嬉しいこと、どんなことがあっても、もう次の瞬間には新しい自分がいるのであります。瞬間瞬間、執着を無くして楽に生きていければと思います。

 さて、自身、色々ともがき苦しむ中において、一つの出会いがありました。それが、日本テーラワーダ仏教協会さんとの出会いであり、仏教について改めて学びを進めていく契機となりまして、ようやくに自身における今日的な無常・無我・苦・中道の理解ができるようになっていった次第であります。もちろん、まだまだ未熟な理解に過ぎないのでありますが・・更に精進努力していきたいと考えております。

 とにかく、慈・悲・喜・捨の心を常に持って、心を平穏に落ち着け、現実の瞬間瞬間を善なる清浄な心、善なる清浄な実践で生きていければと思います。全ては過ぎ去る無常であります。悪感情を抱いてしまったりした瞬間の自分は、もう次の瞬間にはどこにもないのであります。そこで悪感情に蝕まれて、囚われてしまい執着して死ぬまで苦しみ続けることは、実に愚かなことであります。瞬間瞬間を慈・悲・喜・捨で一生懸命に生きていくこと、それが苦しみの無い安楽なる幸福に満ち溢れた涅槃への一歩であると考えます。

 涅槃は真理に気づけば、その瞬間にもたらされるものであります。真理への気づきを常に保ち、忘れないこと、それが大切であると考えています。




   一、はじめに
  二、諸行無常
  三、諸法無我
  四、一切皆苦
  五、涅槃寂静
  六、四聖諦
  七、八正道・中道
  八、因縁生起
  九、智慧
  十、無執着
 十一、無所有
 十二、無価値
 十三、空
 十四、慈・悲・喜・捨
 十五、少欲知足

 十七、煩悩への対処
 十八、無記 
 十九、四弘誓願
 二十、最後に


不許複製・禁無断転載

このホームページの全ての文章の文責および著作権は川口英俊に帰属しています。

Copyright (C) 2007 Hidetoshi Kawaguchi, All Rights Reserved.